今日は奈良時代の史料を紹介します。
平安時代になると、字もかなり浸透してきたのか、史料がたくさんあるのですが、奈良時代はまだまだです。
数少ない奈良時代の史料
①『続日本紀』
文武天皇元(697)年から桓武天皇延暦10(791)年までの9代95年間の記事が40巻にまとめられている。
編年体。
編纂は菅野真道、藤原継縄などが行う。
前半20巻、後半20巻が別々に編纂され、延暦16(797)年に完成した。
②『正倉院文書』(しょうそういんもんじょ)
「文書」って「もんじょ」って読むんですね。
奈良正倉院校倉に伝わる文書。
奈良時代の写経所の文書が一括して残存しており、写経所の運営、進捗状況、社会生活の一端を知ることができる史料。
写経所の事務書類には他から到来した文書や反故文書の裏が利用されたので、大宝2(702)年、御野、筑前、豊前、豊後諸国の戸籍など律令制度の公式文書が存在している。
当時は紙が貴重品でしたから、裏紙を利用して事務書類に使われていたということです。←これは現代でもオフィスでよくやってましたけどw
校倉造りは湿気などを防ぐ良い建物なのが幸いでした。
当時から現代に至るまで、年に1回は文書を外に出し虫干しをしています。
③『寧楽遺文』(ならいぶん)
『寧楽遺文』は7~8世紀の文書・典籍・金石文等を編纂した史料集で、上中下の3巻からなる。
④『令義解』・『令集解』
『令義解』天長10(833)年に完成。養老令の官撰の注釈書。注釈も部分も一定の法的強制力をもつ。10巻。
『令集解』養老令に関する法律家の解釈をまとめた私的な注釈書。
奈良時代は、なぜドロドロだったのか。
奈良時代の問題点として、皇位継承がうまくいってないということがあげられます。
奈良時代の揉め事って「次の天皇は俺だ!」という『自分、てっぺんとります!』の喧嘩がほとんどです。←「今日から、俺は」の観すぎ
これは天皇の結婚相手も皇室の血筋を重視したことが原因だと思われます。
天皇の血をひく女子のみが、皇后になることを許されるなら、その選択肢は非常に狭くなり、たくさんの妃を持つことが難しく、当然ながら子供の数が少なくなります。
7世紀8世紀の頃では、子供が成人する前に病死することも少なくありません。
また、「これ、暗殺じゃね?」みたいな事件もいくつもあり、天皇候補が亡くなると「じゃあ、次は俺!」ということで揉めるわけです。
天皇が何かの事情で早逝した場合、次の天皇候補の皇子がまだ小さかったりすると「わかった!皇子が大きくなるまでママが替わりに天皇やったげる!」みたいな事情で、奈良時代は女帝も多いです。
時には、皇子のおばあちゃまが天皇になることだってあるのです。持統天皇がその例ですね。
そして平安時代
平安時代に女帝はいません。
何人もの妃をもつことで、子供の数も多くなります。
そこに目をつけた藤原氏が自分の娘をどんどん天皇に嫁がせて、権力を広げていくわけですが。
奥さんの身分によって、皇位継承が決められます。
身分の高い奥さんの子は皇太子に。(立太子)
身分の低い奥さんの子は苗字をあげ、臣下の位につけます。皇后マウンテン?奥さんカースト?
苗字をもらい、位をもらえば、お給料がもらえて生活は安泰です。今でいう官僚?国家公務員?
その苗字が「平氏」であったり「源氏」であったりします。
そうか!そうだったのか!
たとえば、平将門は桓武天皇の流れですし、源頼朝は清和天皇の流れです。
こうして平安時代は、落ち着いたかのように見え、貴族たちはわりとヒマで、十二単や短歌や文学などすぐれた文化が生まれます。
その後その「平氏」(関西のおぼっちゃま武士)であったり、「源氏」(関東のヤンキー武士)であったりが大暴れして、武士の時代へと変わっていくのですが。
・・・to be continued・・・!