奈良時代後半は僧たちの力が強くなりすぎました。画像はお借りしたものです
道鏡(あやしい坊さん)の言いなりになった孝謙天皇(元祖キャリアウーマン)がその典型です。
延暦3(784)年桓武天皇は奈良を離れて、長岡京を造ることにしました。
しかし、その数年後。
平安京に遷都した理由
なぜ、長岡京が完成してもいないうちに平安京を造ることにしたのでしょうか。
次のような理由があげられます。
①早良親王(さわらしんのう)の怨霊に対する恐怖
③長岡京・京の機能の不備
④長岡京における皇太后(高野新笠)と皇后(藤原乙牟漏)らの死穢の忌避
死穢 【しえ】
死の穢れのこと。古代・中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられた。死体、それと接する遺族は死穢に染まっていると考えられ、清められるべきものと考えられた。葬式に出た者が家に入るとき清めをした。遺族が忌中の間こもったのは清まる時間が必要との考えもあったから。 Weblio辞書より引用
⑤長岡京造営の遅滞
⑥水陸の交通の要地として平安京の地理的条件
この中で「①早良親王の怨霊の祟り」というのが気になりますね。
藤原種継暗殺事件
延暦4(785)年。ドロドロ奈良時代の締めくくりともいうべき事件。
暗殺には寺院関連の人間や、貴族、皇族が関わったとされ、処罰されました。
そして早良親王(さわらしんのう)も疑われました。
次期天皇ともいわれていましたが、自分の子供可愛さに、桓武天皇が企てて早良親王を陥れたとの説もあります。(←この時代こんなんばっか💦)
早良親王は、無実を訴えるために、流刑される淡路島への道中絶食し河内の国で絶命してしまいました。
早良親王の祟り
早良親王の死後、桓武天皇の近親者に次々と不幸が襲いかかります。
桓武天皇の后や生母らが病死してしまい、皇太子に立てられた安殿親王(あてのみこ)も病気になってしまったのです。
また、飢餓や疫病が大流行したことから、早良親王の怨霊がたたっていると恐れられました。
桓武天皇は平安京への遷都を決めますが、加えて早良親王には「祟道天皇」という天皇号をおくり、その名誉回復につとめました。・・・死後に天皇号をおくられてもねぇ。歴代天皇には数えられていません。
『日本紀略』延暦11年6月10日条によると「皇太子久病む。崇道天皇崇をなす。諸陵頭調使王等を淡路国に遣わして。其霊に奉謝す。」とあります。
安殿親王の病気の理由が早良親王の祟りとされ、早良親王が葬られた淡路国に使者を派遣し、墓守が置かれています。
日本三大怨霊
怨霊の祟りが強く意識されるようになったのは、平安遷都以降といわれます。
早良親王の祟りは「日本三大怨霊」には入っていません。
崇徳院、菅原道真、そして昨日のブログで記した平将門が「日本三大怨霊」です。
崇徳院は、NHK大河ドラマ「平清盛」で井浦新さんが演じられています。
菅原道真を演じるとしたら、藤原竜也さんがいいなぁと個人的に思うんですが、いかがでしょうか。
古代における人々の怨霊への恐怖は、現代の比ではなかったのでしょう。
こうして平安京はできあがり、400年も続くことになります。
受験生の皆さんは怨霊のことは暗記しなくてもいいですから、「794年なくよウグイス平安京」は覚えてくださいね。
北海道は除雪が大変な時期です。
「雪の画像、送って~」と主人におねだりして送ってもらいました。
登別マリンパークです。