奈良時代のドロドロに比べて、平和で安定している時代「平安時代」ですが、400年もの間、蹴鞠や双六ばかりしていたわけではありません。
平安時代もいろいろ、それなりにあったのです。
薬子の変
藤原種継暗殺事件により、長岡京造設中にお父さんを失くしてしまった薬子。 www.betty0918.biz
これが「薬子の変」です。
あ、薬子は平城上皇と夫婦ではありません。
なんと。
平城上皇は皇太子時代に、薬子の娘と夫婦だったのです。
薬子には当然夫がいましたが、娘の旦那様と不倫していたわけです。
平安時代の初期、まだまだドロドロの奈良時代を引きずってますね。
身体が弱かった平城天皇は在位わずか3年で、弟に天皇の位を譲ります。これが嵯峨天皇。で、自分は平城上皇となるわけですが、何かと政治に口出しをする平城上皇。この平城上皇を影で支えていた(あやつっていた?)のが薬子です。
天皇と上皇、どっちも命令してくるので、組織は混乱してしまいます。
薬子は自分の権力のために、平城上皇を再び天皇にしようとします。これを重祚(ちょうそ、じゅうそ)といいます。
平城上皇は薬子とともに挙兵します。
しかし、嵯峨天皇サイドに先手を打たれてしまいました。坂上田村麻呂が派遣され待ち構えていたのです。平城上皇と薬子の策略は失敗しました。
平城上皇は出家し、藤原仲成(薬子の兄)は射殺、薬子は毒を飲み自殺します。
「日本後紀」では、薬子が平城上皇をそそのかしたとされていますが、本当にそうなの?と疑問は残ります。
『日本後紀』
『続日本紀』に続く勅撰の編年体の歴史書。承和7(840)年に成立、40巻からなる。
現存するのは10巻で、欠失している部分については『類聚国史(るいじゅこくし)』『日本紀略』とその他の諸書に引用されている逸文により、ある程度補うことができる。桓武天皇から嵯峨天皇の記事を収めている。
さすがに天皇を悪く描けないので、この揉め事はすべて薬子のせいにするようにと「アツ」がかかった可能性はあります。
なのでこれは「薬子の変」ではなく「平城上皇の変」であると近年は認識が変わってきています。
でも薬子さん、不倫はだめですよ。それも娘の夫と不倫だなんて。
気になる薬子さんの夫藤原 縄主(ふじわら の ただぬし)ですが、遠く九州の地へとばされていたようです。
「薬子の変」の時は九州大宰府に赴任しており、もちろん何の関わりもなかったので、お咎めはありませんでした。
酒を好み、職務はまじめで、親族にも慕われる好人物だったようですよ。
承和の変
「薬子の変」が面白すぎて長くなりました。
まだまだあります、平安の揉め事。
「承和の変」は一言で言うと
文徳を天皇にしたい藤原良房VS恒貞親王を天皇にしたい一派の政変です。(簡単すぎ?w)
結局、藤原北家(ふじわらほっけ)が実権をにぎるために謀反をでっちあげられ利用されたようなもので、廃太子となった恒貞親王は御気の毒です。
その後天皇になった文徳天皇は『日本文徳天皇実録』によると、人となりは明察であり、人の悪いところをよく知っていて、国運が盛んで平和であるようにと政治を行い、巡幸や遊覧などを好まなかった。法律を厳しくし、法律を整理したと記されており、非常に聡明で政務に熱心であったことが窺がえます。いい人だったんですね。
文徳天皇推しの藤原義房はどんどん昇進し、出世コースをばく進していきますが、実は文徳天皇との関係は良好ではなかったようです。
しかし、こういった政変以降、他の有力士族が没落していき、藤原氏(とくに藤原北家)だけが強くなっていきます。
摂関政治が定着していくのです。
昌泰の変
学問の神様として有名な菅原道真。
菅原道真は大変賢く勉強家で何事も冷静に判断できる人物でした。
なので宇多天皇にとても寵愛されたていたのですが、その後即位した醍醐天皇は道真のことをうざったく思っていました。
おまけに藤原基経の子、時平が「道真は、醍醐天皇を追い出して、自分の娘を嫁がせた斉世親王を天皇にしたがってるんだよ。」と醍醐天皇に告げ口します。
この言葉を信じた醍醐天皇は、右大臣だった菅原道真を太宰権師に降格させて、九州の大宰府にとばしています。
これが「昌泰の変」です。
道真は大宰府での厳しい貧しい生活の中、延喜3年2月25日に59歳で逝去しました。遺言により大宰府に葬られました。
この「昌泰の変」は天皇を廃立しようとする宇多上皇側の動きがエスカレートしていく中で、道真が熟慮し、急進派を抑制する役割を担っていたのですが、時平の先制攻撃を受けてしまったというもので、道真の左遷は無実の罪ではなく、政治的対決の敗北であるともいえます。
でも、ここでまた出てくるのが怨霊ですよ。
昨日のブログでも記事にした「日本三大怨霊」のひとつです。
道真が亡くなった後、日本全国で暴風雨に日照り、災害、疫病などが起こりました。
特に有名なのは、延長8(930)年6月に清涼殿に雷が落ち、大納言藤原清貴と右中弁平希世などが雷にあたり死去した「清涼殿落雷事件」です。
これは菅原道真の祟りに違いないと、大宰府の安楽寺に延喜5(905)年に味酒安行が神託により神殿を建て、道真を祀り、天満大自在天神と称したと伝えられます。
天暦頃には京都でも託宣により北野の右近の馬場に道真を祀る神社が建てられ、天徳3(959)年右大臣藤原師輔(もろすけ)により社殿が増築されました。
さらに正暦4(993)年5月に道真に正一位左大臣が追贈され、同年閏10月に重ねて太政大臣が贈られました。←どんだけ怨霊を恐れていたかがよくわかる。主犯の醍醐天皇も衝撃と恐怖により重病となり皇太子に譲位した数日後に亡くなったといわれています。
怨霊の噂が流れるというのは、その人物がいかに皆に愛されていたか、そして無実の罪だということを皆が認めていたということだと思います。
北海道は今日もまた極寒です。
最低気温がー11℃なら、私も何度も経験ありますが、最高気温がー11℃というのはびっくりです。
雪まつりの開催中でもあるし、受験を控えている学生さんもいることでしょう。
どうか何事もなく寒気が通り過ぎてくれますように。
受験生の方は怨霊のことは覚えなくていいです!
それより894年ハクシに戻そう遣唐使を覚えてくださいね。
その後907年に唐は滅びます。