来年の大河ドラマ「麒麟がくる」初回は1月19日ということで、2週間延期になったことになります。
これによって撮影や編集などのスケジュールが大幅に変更されたのですから、無理もないですね。
帰蝶は初回から登場する予定とのこと。
どれだけハードスケジュールになることか。
その昔、関根恵子さん(高橋惠子さん)が愛の逃避行をした時に舞台で代役を引き受けた市毛良枝さんは、ひと晩ですべての台詞と動きをマスターしました。
天海祐希さんの急病のため、やはり舞台の代役を引き受けた宮沢りえさんも不眠不休で稽古に励み、見事な舞台を創り上げたそうです。
「麒麟がくる」では、織田信長役が染谷将太さんということで「あれ、明智光秀役の長谷川博己さんを思うと、染谷将太さんは若すぎないか?」と思った記憶があります。(染谷将太さんは大好きな俳優さんです)
織田信長は天文3年(1534年)生まれ。
明智光秀は?
・永正13年(1516年)生まれ。
・享禄元年(1528年)生まれ。
・天文9年(1540年)生まれ。
・・・とまぁ、知名度のわりには、前半生があまりはっきりせず、生まれ年がよくわかっていません。
死没は天正10年6月13日とはっきりしています。(『明智軍記』では没年天正10年6月14日)
本能寺の変が6月1日。わずか13日の天下で亡くなったのです。
私が勝手に抱いていたイメージでは、信長より年齢は上です。
実際、享禄元年生まれを採用する物語が多いようですが、確かな根拠があるわけでもありません。
享禄元年生まれだとすると、光秀は信長より6歳年上。
まぁそんなものか。
光秀と信長の妻帰蝶とは従兄弟で、ほぼ同じ年齢もしくは光秀が帰蝶より年下という説もありますが(『美濃国諸旧記』)、帰蝶が信長より1つ年下(天文4年生まれ)という説が有力です。
光秀謀反の理由は知るよしもありません。
信長と光秀のふたりの気が合わなかった?
怨恨説もいくつも出されています。
光秀には信長に叱責されたり、面子をふみにじられたりして、信長を恨む理由がたくさんありました。
信長の家中でしだいに地位が低下しつつあることを光秀が感じ、このまま忠節を励んでも先がみえていると思ったか。
さらには光秀の不満を知った足利義昭からの働きかけがあったとか。そこまで義昭に政治力はあったろうか?
天皇に近い人々による積極的な画策があったと推測する説もあります。実際、天皇・公家は「本能寺の変」で光秀が信長にとってかわると思ったのか、6月7日(「本能寺の変から6日後)には安土に勅使を送り、9日に光秀が上洛すると、公家衆総出で光秀を途中で迎えようとしたそうですよ。
もっとレアな説としては、イエズス会黒幕説。これは成立する余地がないような気がしますが。
光秀の人柄については「教養高い」「才知にたける」ということで有名ですが、野心も大きかったとか。
天正10年(1582年)信長はすでに疲れていた?桶狭間から数えても22年の間、激しい戦闘に明け暮れていました。49歳。戦争指導者としての能力を使い果たしていた?
信長の49歳の人生は、近世のはじまりを象徴した時代でした。
天下統一の事業は、信長の後、秀吉と家康が継ぎ、完成しました。
徳川氏によってつくられたのは、封建制度を中央集権的に編成する世の中。
信長が夢みていた実力主義・合理主義は消え去りました。
また信長にみられた海外への強い関心と海外文明の摂取も、家光による鎖国政策によってとってかわられました。
信長の合理主義・実力主義、そして海外への積極的姿勢は「夢幻」となったのです。
「織田が搗き(つき) 羽柴がこねし天下餅 座って食うは徳川家康」
鏡餅、もうスーパーで売ってた。年末だなぁ。