朝ドラ『エール』が最初の1週間の放送を終えました。
1週間の最後では、主人公裕一が母の実家へ養子にいくかもしれないというちょっと切ないような悲しいようなそんな展開で終わりました。
この時代、跡継のいない親戚の家の養子になるというのは、よくあることだったのでしょう。
私は今ちょうど、大学のレポートで大正時代の文学について考察しており、児童文学者の新美南吉の生い立ちが『エール』の裕一と重なりました。
今日はレポートに向けてのメモがわりに(?)新美南吉についてのブログを綴りました。
目次
児童文学者新美南吉
『ごんぎつね』や『手ぶくろを買いに』などが代表作としてあげられる新美南吉。
誰でも幼き日に読んだことがあるかと思います。
新美南吉は、『エール』の裕一の妻となる音の出身地でもある愛知県で生まれ育ち、東京外国語学校卒業後就職したものの、その後故郷へもどり作品を作っています。
南吉の生い立ち
1913年、愛知県半田市(当時は半田町)で生まれた南吉は4歳の時に母を亡くします。
南吉の父は後妻を迎えますが、その後南吉は亡き実母の実家に跡継ぎがいなかったため養子になります。
その養子先でなじめず、南吉は生家へ戻るのですが、戸籍は養子宅の姓のままでした。
この一件が、幼い南吉には大きな衝撃でした。
新美南吉の作品には母への思慕とふるさと半田がモチーフになっています。
後妻に入った南吉の継母は、自分の実子とも分け隔てなく南吉を可愛がったそうです。
『手ぶくろを買いに』
私が好きな南吉の作品に『手ぶくろを買いに』があります。
母きつねが、幼い子ぎつねを、たったひとりで夜の街に買い物に行かせるという描写が初めて読んだ小学生の頃から現在に至っても納得できません。
これは作者である南吉の中で、母親像が破綻していたからではないかと思われます。
新美南吉作品の悲しみと愛情の描写
代表作『ごんぎつね』の主人公ごんは独りぼっちでした。
最後は悲しい結末。
『川』の中で「住みなれた生活環境からぽっかりひっこぬかれ、両親も、きょうだいも、友だちも、おき去りにして、まるで違った生活の中に、おっぽりだされたのである。彼は、とまどいし、さびしさを感じていました。」という描写があります。
南吉の作品には、幼き日の辛い出来事が反映されるように描かれていることがあるのです。
またそれ以上の特色として、失われてゆくもの、滅びゆくものに対する限りなき愛情が感じられます。
たとえば『最後の胡弓弾き』の時代に取り残された木之助であり、『おじいさんのランプ』での時代遅れになったランプへの愛情などがそれです。
南吉は4歳で実母を29歳という若さで失い、またその実母の弟も30歳で亡くなっています。
南吉は自分が短命の家系であると意識していたといいます。
そういった背景が作品にでていたのかもしれません。
南吉の創作への道
『エール』で先日藤堂先生(森山直太朗氏演)が語られていた児童雑誌『赤い鳥』に新美南吉が投稿したのは18歳の時。童謡『窓』が掲載されます。
その後1932年1月号に代表作『ごんぎつね』が掲載されました。
ただ1933年4月、南吉が尊敬する北原白秋が主催者鈴木三重吉と大げんかの末、『赤い鳥』と絶縁したため、南吉も『赤い鳥』への投稿をやめます。
その後、病気と転職などの環境の中、作品を書き続けます。
南吉童話は29歳で亡くなるまでの数年間に書かれたものであり、没後にその遺稿が発表されるとその声価が高まりました。
その点は宮沢賢治とよく似ているかもしれません。
NHK連続テレビ小説
病弱だった南吉は、29年の生涯の中で、3人の女性と交際しました。
そんな一生を考えると、彼の生涯を朝ドラでやってほしいとさえ思うのですが、病気との闘いは辛いものがあり、また29年という短い一生を半年もの間引き延ばすのは無理でしょう。
視聴率が落ちているNHK朝ドラ。
昔は1年をとおしての連ドラでした。
今は半年。
そろそろ3か月というスパンで考えても良い頃ではないでしょうか。
本日の記事は、こちらの千葉俊二氏の解説を参考にさせていただきました。
さ、大学の提出レポート仕上げよっと😅