日曜日の夜、ハンカチ片手にテレビの前で鎮座されていた方も多いのではないでしょうか。
私も覚悟の上で、挑みました。
これは『おんな城主 直虎』の小野政次磔刑以来のことだと思います。
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『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」は斎藤道三の最期です。
目次
『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」あらすじ
長良川での親子の戦いは、圧倒的な軍勢を誇る斎藤義龍の勝利となり、斎藤道三は倒れる。明智光秀はそんな義龍を罵り、叔父の光安の命により、義龍からの攻撃から逃れるため、光安を残し、明智城から逃げる道を選ぶ。
斎藤道三の最期
NHKの熱の入れよう
5月10日母の日、NHKは斎藤道三特集?とも言うべき、昼過ぎからは歴史秘話ヒストリアで「信長を導いた戦国革命児 斎藤道三 非情の哲学」を再放送し、夕方からは道三役の本木雅弘さんにスポットを当てた「プロフェッショナル仕事の流儀 本木雅弘SP」を放送しました。
コロナによる外出自粛のため、新しい番組を制作できないという事情からでしょうが、斎藤道三最期に向けての力の入れようがわかります。というか、ドラマ制作不可のため、他に目玉の番組がない・・・💦
義龍と道三の一騎打ち
想像どおりの親子対決でした。
「高政ぁ!一騎討ちじゃ!」と父の斎藤道三が提案し、息子の義龍も家臣に「手出し無用。」と受けてたちます。
「親殺し」の汚名をきたくない義龍は、道三の命まで奪うつもりはなかった。
しかし、斎藤道三の煽りに負けてしまった義龍は、「討て!この者を討て!」と家臣に言い放ち、一騎討ちを放棄してしまいます。
雑兵に殺られてしまう道三。
こうして後世まで斎藤義龍は「親殺し」の汚名を背負っていくことになります。
史実ではかなり残虐な殺し方をしたとの説もあり。
明智城炎上
斎藤道三側についた明智光秀は、義龍に「次会うた時は、そなたの首を刎ねる。明智城は即刻攻め落とす。覚悟せよ」と宣言されます。
光秀は明智城に籠城はせず、叔父明智光安の懇願により、母と妻を連れて逃げることを選びます。
光安の「これはそなたの父上の声と思うて聞け。一旦城を離れ、逃げよ。逃げて逃げて逃げて生き延び、明智家の主として、再び城を持つ身になってもらいたい。そなたならそれがやれる。許されるなら、この左馬助もそこにくわえてもらいたい」の台詞は泣けましたよね。
私は、道三の最期の場面は意外にも泣きませんでした。
でも西村まさ彦さん演じる明智光安の懇願に号泣しました。
明智光安さん!
あなたが今回のMVPですよ!
絶対にマムシロスになると思っていたけど、まさかまさかの光安ロスですよ。
光秀はどこへ逃げていく?
越前に道三を逃がす手伝いを伊呂波太夫に頼んでいたのに、道三はそれを断り、死して義龍に「親殺し」の汚名をきせました。
今度は帰蝶はおそらく、光秀の逃亡を伊呂波太夫に手伝わせるのでしょう。
とすると、光秀の逃亡先は越前?
越前といえば朝倉義景。
ユースケ・サンタマリアさん、いよいよ登場です。
光秀が信長に仕えるまでの予習。
逃げるなら、越前ではなく、手っ取り早く尾張の信長の元へくればいいのに・・・とドラマ『麒麟がくる』だけを観ていると思ってしまいます。
史実によると。
いえ、それは定かではなく、あくまでも「諸説あります」という前提ですが。
光秀は30歳前後で、美濃から越前に移り住んだといわれています。
称念寺での生活
幼少の頃、福井に住んでいた私は、丸岡も馴染みのある土地です。
光秀は、この称念寺の門前で10年にわたって浪人生活を送っていたといわれています。
30歳から10年だとすると40歳になってしまいます。
室町幕府15代将軍足利義昭との出会い
そんな光秀が歴史の表舞台に出てくるのが永禄10(1567)年のこと。
当時越前を治めていた朝倉氏の元に身を寄せていたのが、後の15代将軍足利義昭。
義昭は政変に破れ、越前にて再起を計っていたのです。
当時義昭は名簿を作っており、その中の「足軽衆」に「明智」の名があります。
これが光秀だといわれています。「光源院殿御代当参週屏 足軽イカ衆覚」より引用
義昭は光秀に大きく関わってきます。
織田信長の家臣へと
光秀は義昭の上洛を手助けする大名を探す任務を与えられていました。
そこで光秀が交渉したのが、織田信長だったのです。
こうやって、光秀と信長が再び繋がっていきますね。
どのように、信長に取り立てられるのかは、またドラマで!