先日のNHK歴史秘話ヒストリアで「戦国に生きた女性 細川ガラシャ」がテーマでした。
放送中の『麒麟がくる』の主人公明智光秀の三女(ドラマでは二女?)明智たま(後の細川ガラシャ、ガラシャはキリシタンの洗礼名)です。
『麒麟がくる』のたまが成長する前に、今日は細川ガラシャの生涯について少しお話させてください。
目次
嫁ぐ以前の生活
たまは父明智光秀に似た教養ある賢い女性でした。
『麒麟がくる』ではまだ幼くお花にお水をやりすぎて、侍女に注意されてました。
父光秀が越前に住んでいた頃に生まれたたま。
ドラマでわかるように当時は貧しい日々でしたが、琴や横笛が得意で貧しいながらも様々な教養を身につけていた女性でした。
細川忠興に嫁ぐ
そんなたまが結婚するのは16歳の時。相手は細川家嫡男の忠興です。
細川家は代々将軍家の側近を務めてきた名門です。
政略結婚で結ばれたふたりでしたが、幸せに過ごしていました。
忠興の父藤孝からは「ひとしお最愛の嫁」とまで言われたたま。
本能寺の変
しかしそんな結婚に暗雲が立ち込めたのは、ご存じ「本能寺の変」
父明智光秀の謀反でした。
光秀は細川家に支援を求めますが、細川家はそれに応じることはありませんでした。
たまは「謀反人の娘」として山奥に幽閉されることになります。
忠興はたまが憎かったのではなく、ある意味たまを守るために幽閉したという説もあります。そこは諸説あります。
キリスト教信仰
2年の幽閉生活後、大阪の細川家に戻ったものの、忠興との生活は亀裂が入るようになりました。
身内の者にも容赦しない忠興の性格と、それに負けないたまの性格がぶつかり合った逸話がいくつか残っています。
そんな中、たまは侍女マリア(清原いと)の影響でキリスト教に興味を抱き、忠興が九州に出陣した隙に、侍女たちに紛れ密かに屋敷を抜け出すと、教会へと向かいます。屋敷から教会へは2kmほど。
天正15(1587)年、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出ます。
たまはマリアを通じて、夫忠興に内緒でキリシタンの洗礼を受けます。
洗礼名はガラシャ。
秀吉に仕える忠興がたまを許すはずがありません。
たまは離別すら覚悟します。
「1つの苦しみから逃れても、さらなる大きな苦しみを味わうことになります。離婚してはなりません。」宣教師はそうたまを諭します。
たまが忠興に信仰の許しを忠興に請うと、意外にも忠興は諦めの心境なのかたまのキリシタン信仰を許してくれたのです。
キリスト教への弾圧が緩むと忠興は礼拝堂まで造ることを許してくれます。
それからギクシャクしていた夫婦間は穏やかになり、昔のような仲睦まじい夫婦になるのです。
そして新しい夫の赴任地九州へ行くことを楽しみにしていました。
人質を拒んで
慶長5(1600)年。
関ケ原の合戦から先立つこと2か月。
細川たま38歳。
7月に石田三成からの使者が、たまに人質になるように説得にきます。
多くの東側の武将の妻は人質になる前に逃げ出しています。
しかしたまは逃げることも人質になることもしませんでした。
細川家の名誉を守るため、死を決意したたまは、7月17日石田方の兵が屋敷にくると、侍女たちを屋敷の外に逃がすと、小笠原秀清に手伝わせ、自害します。家臣たちは彼女の亡骸を敵に奪われないように屋敷に火をかけました。
石田三成はたまの死に怯え、かえって敵を増やしかねないとし、それ以降人質をとることをやめました。
たまの死は天下分け目の決戦である関ケ原の戦いの勝敗に大きく左右したのかもしれません。
細川ガラシャの死は、関ケ原の合戦における最初の犠牲者と近代の研究では位置づけられています。
ガラシャの死後の忠興
ガラシャの死後、忠興は鐘を作り教会を建てます。
ガラシャの1周期にその鐘がなると、忠興は泣き崩れたそうです。
忠興はその短気な性格から、ガラシャの死後も父細川藤孝(後の幽斎)や弟と不仲になったりするのですが、晩年は角がとれて丸くなったといいます。また父と同じく教養人であり、和歌や能楽、絵画にも通じていました。
『麒麟がくる』のたま
『麒麟がくる』少女時代のたまは天真爛漫な聡明な女の子。そんな細川たまを演じるのは芦田愛菜さん。
たぶん出演シーンはそれほど多くないかと思われます。
帰蝶がやむを得ない事情で、出番が少なくなってしまったし、光秀の妻煕子も民放での秘書のお仕事が忙しいし、庶民の代表駒がやたら活躍しているし、女優陣はなんとなく迷走している気がしますが、いつ最終回を迎えるのか、それまで楽しんでいきたいと思います。
歴史秘話ヒストリアで放送された細川ガラシャ夫人についてまとめさせていただきました。
どんな歴史にも諸説あります。
実は細川忠興とたまは最後まで仲が悪かったという説もあります。
たまは光秀の四女だったという説もあります。
でも不明な点がたくさんあるから歴史って面白い。