こういった神々が日本を作ったとされる日本神話。
この神話が生まれたのが島根県出雲地方です。
そんな『日本書紀』の
11月25日NHKで放送された「歴史秘話ヒストリア」は「日本誕生 知られざる物語 日本書紀1300年」でした。
私は日本神話を信じているわけではありませんし、戦前までこの教育を叩き込ませていたことが太平洋戦争に命をかける若者に影響を与えたということで、むしろ快く思っていませんでした。
だからこそ、もう1度勉強したいと思いました。
目次
須佐神社
出雲に須佐神社があります。
スサノオノミコトを祀った神社です。
ここには「ヤマタノオロチの骨」なるものが伝わっているといいます。
ヤマタノオロチは頭と尾が8つもある凄まじい大蛇です。スサノオノミコトが退治されたと言われています。
須佐神社の
その他にも「日本書紀」には「非現実的な話」がてんこ盛りです。
国譲りの神話
出雲に降り立ったスサノオノミコトは日本の礎を築きます。
スサノオノミコトの息子、オオクニヌシノミコトは医術や農業を広め、人々の暮らしを支え、豊かな国を作り上げました。
それを高天原から見ていた天照大御神は、「気に入った。この国が欲しい。」と思うようになり、出雲に使いを送りました。使いの神タケミカヅチノミコトはオオクニヌシノミコトに迫ります。
「天照大御神にこの国を譲りたまえ」え?そんな理不尽な!…と私は思うけど?
オオクニヌシノミコトはそれを受け入れました。え?受けちゃうの?なんと気前がいいというか、権力に屈するタイプというか…
こうして天照大御神の子孫がこの国を治めることになります。
これが「国譲りの神話」です。
オオクニヌシノミコトが作りあげた豊かな国とは
かつて出雲では舟による交易を行っていたと考えられています。
400㎞離れた朝鮮半島。
日本海には北東に向けて流れる対馬海流と南西に流れるリマン海流があります。
そういった影響があり、手漕ぎの舟でも大陸から出雲に外来人が渡ってくることが可能だったのです。
今でも海岸には、朝鮮半島から流れついたペットボトルなどがあります。
独特な地形も手伝い、古代出雲は港町として最適でした。
弥生時代、出雲は日本列島において最新の地だったのです。
古墳が語る政権交代
四つの隅が飛び出た四隅突出型墳丘墓。出雲で数多く作られました。
中国地方を中心に北陸地方にまで及んでいます。
しかしこの古墳は3世紀半ば以降は前方後円墳に変わります。
前方後円墳は大和地方に多く見られます。
そう、大和勢力に出雲は制圧されていきます。
したがって出雲は大和に支配権を献上したのです。
現実の「国譲り」はオオクニヌシノミコトが天照大御神に国を譲ったのではなく、大和政権による日本統一の姿でした。
日本書紀完成までの道のり
「日本書紀」を完成させるにあたって、中心となったのは
7世紀。
645年に蘇我入鹿が暗殺されたクーデター「大化の改新」の後、天皇・大王を中心とした新たな国造りが始まるのです。歴史用語で「大化の改新」は「乙巳(いっし)の変」といいます。
その国造りの模範となったのは、お隣り中国「唐」でした。
唐のような中央集権国家をつくるために、3つの物が必要でした。
国を治める法律、権力を示す都、皇帝の正当性を綴った歴史書が必要となりました。
クーデターの立役者藤原鎌足の息子である藤原不比等の育ての親は渡来人でした。
国際教育を受けたいわゆるエリートです。
不比等は国造りに邁進します。
大宝律令
701年、国を治めるための法律、大宝律令を作ります。
藤原不比等に孫が生まれます。後の聖武天皇です。不比等は「ザ・元祖政略結婚」の父です。
不比等の国造りモチベーションはにさらに燃え上がります。
平城京
不比等、都の建設に着手します。
この時点で不比等は50歳を超えていました。
当時の50歳といえばかなりの後期高齢者。
『日本書紀』編纂
720年「日本書紀」完成。全30巻。
その3か月後、藤原不比等は63年の生涯を閉じます。
ドロドロの奈良時代に突入
不比等の死後、不比等の息子たち藤原四兄弟が「長屋王の変」を起こしたりして、奈良時代はドロドロと沼になっていきます。
大学受験に日本史を選択されている方には、すでに理解されている内容ばかりだったかと思いますが、高校受験を控えた中学生の方は、ぜひ今日のこのブログを参考にしてくださいね。
いや、こんなの読まないで、参考書を読んでください。