暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

『麒麟がくる』第35回~藤吉郎の母が前代未聞の色っぽさ

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武門の名家「摂津」

摂津晴門は13代将軍義輝と15代将軍義昭に仕えますが、生没年は不詳。元亀3(1572)年の記録を最後に表舞台の記録には載っていません。亡くなったのか引退したのか。

ドラマでは光秀暗殺失敗による失脚といったところでしょうか。

片岡鶴太郎さん、私には最後まで『太平記』の北条高時や『軍師官兵衛』の小寺政職と区別のつかない演技でした。(『毛利元就』や『元禄繚乱』私は見てないからわかりませんが、鶴太郎さん大河ドラマに何度も出演されてますね。)

 

 

目次

 

麒麟がくる』第35回「義昭、まよいの中で」あらすじ

摂津晴門明智光秀暗殺を企てるが、駒の機転から太夫の活躍から細川藤孝の行動によって、光秀は難を逃れる。光秀は太夫の計らいで、三条西実澄を通し帝に会うこととなるのであった。

あら、100文字もなかった。

 

藤吉郎のかあちゃん

豊臣秀吉の母大政所。

現在木下藤吉郎の母なか

銀粉蝶さんが演じられてます。

突然乱入してきました(笑)

 

藤吉郎の母のイメージは

今回の『麒麟がくる』は織田信長木下藤吉郎のキャスティングにもびっくりしましたが、今回の銀粉蝶さんも今までの大河のなかとは違う雰囲気だ!

尾張にある村で生まれ、決して裕福ではない家で(むしろ貧乏)育ち、足軽に嫁ぎ4人の子を育てた肝っ玉母さんのイメージです。

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4人の子というのは、姉(秀次の生母)、秀吉、弟(秀長)、妹(朝日姫:徳川家康正妻)ですが、ドラマでは「妹がいたんだが、わしが芋を横取りして、亡くなった。」と涙ながらに光秀に訴えてましたね。早逝した妹なら朝日姫ではありません。もうひとり妹がいた?これは史実なのか、藤吉郎の作り話なのか、ドラマの作り話なのか、謎です。

 

大河ドラマでなかを演じられてきた女優さん

そんな肝っ玉母さんのなかをこれまで演じてきたのは、

太閤記』では浪花千栄子さん(朝ドラ『おちょやん』のモデルです)

おんな太閤記』では赤木春恵さん

『秀吉』では市原悦子さん

利家とまつ』では草笛光子さん

など、地味な着物に日焼けした顔で、いかにも「こら、藤吉郎!」なんて言いそうな庶民的な雰囲気の方ばかり。

私としては『真田丸』で演じられた名古屋出身の山田昌さん(当時86歳)のなかが好きだったなぁ。

 

でも今回の銀粉蝶さん演じられるなかは厚化粧に派手な着物で、そして色っぽい(笑)

麒麟がくる』、いろいろな意味で裏切ってくれますね!おもしろいよ!

 

ツッコミどころ

なかは東庵先生がご贔屓のようですが、いつ尾張国中村郷から京都に出てきたのでしょうか。

史実では、藤吉郎の父に先立たれ、その後再婚し、その再婚相手が亡くなると藤吉郎の元へ来たようですが。

東庵先生の元へは藤吉郎の紹介で通うようになったんですか?

京都には東庵先生以外、お医者さまはいないのでしょうか。織田信秀なんて尾張まで呼び寄せてましたもんね。

帝も三好の家臣もみんな東庵先生がご贔屓なんですね。

といった細かいツッコミはやめておきましょう。

 

信長と義昭と帝

足利義昭

「信長とわしは性が合わぬ!」と言う将軍足利義昭

ほんとに?

最初から?

向井理氏演じる兄義輝は死ぬ間際まで、自ら三好三人衆を相手に奮戦、フロイスの『日本史』にはその時の様子を「将軍は自ら刀を抜き 戦い 勝利を目前に攻め入る三好勢に対し 勇猛さをみせつけた」とあります。

ちょっとズレてることもあったけど、最初から最後までとにかく恰好いい兄でした。向井理さんが演じてたからってのもあるけどw

でも義昭は…

将軍になる決意は蟻頼み、上洛も信長頼り。幕府再興もいろんな大名に手紙を出して「手伝ってくれ~」

とくに上杉謙信には10通もの手紙を出していたそうです。謙信は武田や北条との戦いが忙しくてそれどころじゃなかったみたいですけど(;'∀')

いつだって他力本願。駒に「いっそわしを絞め殺してくれ」って、死ぬのも他力本願。

 

だいたい室町幕府というのは、将軍を支える大名ありきの政権で、連合政府ともいうべき形態でした。将軍義昭はそれを目指していたのかもしれません。

信長のことだって、信長のことを「御父おんちち」と手紙に書くくらい頼りにしていました。『改正三河風土記』による

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今回も義昭はどっかに手紙? 違います、経文を書いてました。駒に「墨が薄い!」とか八つ当たりして。逆ギレされてましたけど(笑)

 

義昭と信長の政権運営に関する考え方に隔たりがありました。

義昭にとって、信長は幕府を支える家臣のひとりにすぎません。

しかし、信長は「天下布武」を目指していたのですから、義昭を利用して幕府を治めようとしていました。

 

天皇の存在

ドラマより少し前、永禄12(1569)年10月、伊勢平定を終えて上洛した信長が突如7日めに岐阜に帰ったことについて、『多聞院日記』には「上意(義昭)トセリアヰテ下了ト」とあります。義昭との対立が原因とみる風聞が大和にまで達していたのです。

天皇が驚いて帰国の理由を問う勅使を派遣したのですから、尋常ならざる事態だったのです。

 

ドラマでは「(帝が)褒めてくださった」と信長は天皇の言葉に一喜一憂してましたけど、現実には天皇が信長の行動に一喜一憂していました。

もしかしたら信長は自己の必要のために天皇側に権限があるのだと演じていたのかもしれない。

ただ武家政権が、この時期に至っても天皇・朝廷から完全に自立して政権を樹立できなかったというのは意外です。

武家の世になって、鎌倉時代室町時代と、もうずいぶんになるのに。

 

反信長勢力

浅井・朝倉、武田信玄本願寺顕如、そしてこの後松永久秀も。

反信長同盟が結成されようとしています。

将軍足利義昭は反信長同盟の結成に重要な役割を果たし、挙兵の機をうかがうことになるのです。

 

光秀はいつ信長の家臣に?

光秀の盟友細川藤孝が主君義昭を見限り、荒木村重と共に信長に忠節を誓うのは元亀3(1573)年「三方ヶ原の戦い」の後。日本の元号と西暦で少しズレがあります。三方ヶ原の戦いは元亀3年12月22日で西暦では1573年1月25日。

じゃあ光秀は?

いつ?

光秀はいつ義昭から訣別するの?いつ正式に信長の家臣になるの?

「(信長が好き勝手やるなら)この二条城で公方様をお守りする所存!」とか言ってるけど。

 

 

ドラマは今元亀2(1571)年。

麒麟がくる』の最終話は来年2月初旬?

もう10回もありません。

その間に三方ヶ原の戦い室町幕府滅亡に長島の一向一揆長篠の戦い本能寺の変?山崎の戦もやる?

それとも、駒に頼まれた伊呂波太夫の手引きで、光秀どこかへ逃亡して生き延びちゃう?

 

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