暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

丹波攻めが始まる~『麒麟がくる』第38回

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年内最後の放送だったから?…というわけではないと思うのですが、回想シーンがあり、懐かしい顔を見ることができました。

明智光秀は、三淵藤英と初めて会った時のことを語ります。

そうですね、青春の一コマっていうんでしょうかね。

田舎者であった明智十兵衛、シティボーイの藤英の立ち居振る舞いに感嘆したのです。

そして視聴者である私たちも、あの頃はコロナ禍の影響がここまで全国に拡がるとは想像してなかった。大変な1年、大河ドラマだったのです。

 

後半、史実のネタバレがありますのでご注意ください。

 

目次

 

麒麟がくる』第38回「丹波攻略命令」あらすじ

三淵は信長の命で自害。稲葉一鉄(良通)の家臣であった齋藤利三が光秀の家臣になりたいと願い出てくる。「丹波を攻略せよ」と信長の命を受けた光秀はその画策のために動き出す。

 

白い百合の花

後の細川ガラシャたまが白百合の花を生けている場面から始まります。

たまは生け方を三淵に教わっています。

たまはこの数年後、三淵の甥の細川忠興に嫁ぐことになります。

残念ながら、そのことを知ることなく三淵は亡くなるのですが。

長崎の日本二十六聖人記念館には白百合を抱いたガラシャ肖像画があります。ガラシャの絵としては最も有名な絵かもしれません。

キリスト教において百合は「純潔・清らかさ」を意味するとされ、聖母マリアを象徴するモチーフでもあります。

 

江戸幕府三代将軍の乳母へ繋がる人たち

斎藤利三が光秀の元へ来ます。

利三は、稲葉良通の風見鶏のようなプライドのない生き様に嫌気がさしたようですね。

この風見鶏的ずる賢さは、『真田丸』の真田昌幸草刈正雄氏演)を思い出させますが、真田昌幸のようなチャーミングさがないんですよね、稲葉良通には。

 

稲葉一鉄

今回から主君の稲葉良通改め稲葉一鉄と名乗ります。

一鉄、これが「一徹」という言葉の語源であるという説が有力です。

稲葉良通、号は一鉄、頑固な一面があり、そのことから号の一鉄にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされています。

一徹(いってつとは。意味や解説、類語。[名・形動]思いこんだことはひと筋に押し通すこと。かたくななこと。また、そのさま。「老いの一徹」「一徹な性格」

goo国語辞書より引用

 

この稲葉良通は、後の江戸幕府三代将軍の乳母となる春日局のおじいちゃんです。

ここでちょっと系図を作ってみました。

1989年NHK大河ドラマ春日局』では、大坂志郎さんが演じていらしゃった稲葉良通

それはそれは優しい穏やかなおじいちゃんでした。

今回はまぁなんと憎ったらしい武将なんでしょうねぇ。

村田雄浩さん、なんだか憎めない役どころが多いのですが、今回は本当に憎ったらしいですよ。

 

斎藤利三

斎藤利三は光秀と親戚にあたるという説があります。

また長宗我部元親とも親戚です。

長宗我部元親との関係が、本能寺の変の原因のひとつだと考えられる研究もあります。

斎藤利三は光秀の家臣となります。

ドラマであった、稲葉一鉄と喧嘩して光秀に仕えることを望んだとか、そのことで光秀が信長に叱られたとか、光秀が利三を召し抱えたいと懸命に信長に頼んで認めてもらったとか、そういった逸話は本当に残っています。

利三は光秀に大変信頼され、秀でた家臣だったようです。

 

春日局

斎藤利三の娘、後の春日局ことふくは1579年生まれですから、ドラマの現時点ではこの世に生を受けていません。

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光秀の娘たまもそうですが、斎藤利三の娘ふくもまた、本能寺の変後は逆臣の娘として苦難の道を歩きます。

たまは非業の死を遂げることになりますが、ふくはハードな人生を強く生き抜きます。

たまほどではありませんが、元々はエリート武家のお嬢様だったふく

本能寺の変後は、公家の家の下働きをし、ようやく結婚したと思ったら、夫の稲葉正成はプータローになってしまいます。

無職の夫に代わり、自分が稼ぐために「第2代将軍秀忠の息子の乳母募集」に応募し、合格を勝ち取ります。

信長の姪であるお江(秀忠の正妻)とのバトルを乗り越え、病弱な家光のために薬断ちをしてまで、将軍の命を守ります。

春日局となったふくは、将軍様の総合プロデューサーとして大出世し生涯活躍するのです。

 

参考文献

 

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紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑

 

これから本能寺の変まで~史実のネタバレ

天正2(1574)年、織田信長長島一向一揆を攻め滅ぼす。
天正3(1575)年5月、長篠の合戦にて信長は武田勝頼を破り、8月には越前一向一揆を鎮圧する。
天正5(1577)年、織田信忠に攻められ、松永久秀父子自害。
天正6(1578)年、上杉謙信没。
天正7(1579)年7月、明智光秀丹波を平定する
天正8(1580)年、本願寺顕如織田信長と和睦する。
天正10(1582)年3月、織田信長に攻められ、武田勝頼が甲斐にて自害。6月本能寺の変
 
丹波攻め
信長に命じられた丹波平定。丹波は毛利攻めのための大事なポイントです。
「何年かかってもよい。丹波を抑え込め!」と信長に言われた光秀。
菊丸も「丹波は難しい国でございます。」と言っていました。
都にほど近い丹波には信長に従わない勢力がおり、その討伐を行わなくてはなりません。
丹波平定が実現するのは、これから5年先のこと。
途中高屋城の戦い(本願寺攻めのひとつ)や長篠の戦いもあります。
まさに社畜。ブラック上司の期待に、光秀はへとへとになってしまうのです。
 
 
働きすぎの光秀の身体が心配です。
そして気になるのは、近江の西教寺に残る過去帳の「天正4(1576)年の11月に光秀の妻が死んだ」という記述。
 
ひろ子さん、大丈夫!?