暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

花びら舞う中、煕子逝く~『麒麟がくる』第39回

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働きすぎの光秀が過労で倒れてしまった。そしてそれを看病していた妻煕子が亡くなってしまう。

煕子さん、この物語のヒロインかと思いきや、出番が少なかった。

忙しかったんだよね、他局の撮影で・・・秘書とはいえど、裏で要人を操る影の軍団だもんね(-_-;)

 

目次

 

麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」あらすじ

信長は、蘭奢待を毛利に譲った帝に腹をたてふてくされるわ、本願寺攻めが甘いと家臣を叱咤し戦場へ無防備で飛び出すわ、光秀は振り回される。そんな中過労のせいか光秀が倒れ、その光秀が回復した頃、今度は煕子が病に伏し帰らぬ人となるのであった。

 

光秀の娘きし

明智光秀の娘といえば、三女たま(四女という説もある。ドラマでは二女。)がクローズアップされがちです。

まずは長女きしのお話をさせてください。

今回倒れた光秀を心配して、婚家から飛んできてくれた長女きし

きしの婚家とは荒木家。

「父上が病と聞いて、荒木の義父からお許しをもらってきました。」と言っています。

荒木の義父とは荒木村重荒木村重の長男村次(村安)にきしは嫁いでいるようです。

 

この先、荒木村重天正6(1578)年に織田信長に反逆します。それを機に村次はきしを離縁します。

その後きし明智光春(左馬之助)に嫁ぎます。これは『綿考輯録』によるものです。

明智軍記』によるときしは最初から明智光春(左馬之助)に嫁いだことになっています。

ドラマ『麒麟がくる』は『綿考輯録』のきし再婚説を採用しました。左馬之助との恋愛話はやるかな?

 

光秀の娘たま

きしの妹、たまはまだ結婚しておらず、明智家にいます。

光秀の見舞いにきた織田信長は、たまをとても気に入った様子。

結婚のお世話をしたいとまで言います。

ご存じの方が多いかと思いますが、たま細川忠興の縁組は織田信長が仲人です。

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たまはたいそうな美人ですから、じつは秀吉も狙っていたという話も聞いたことがありますが、真実はわかりません。

女好きの秀吉、それも身分の高い女性が好みでしたから、それもあり得るかもしれませんね。

 

徳川家康正室、築山殿

その秀吉と対照的で家康は身分の低い女性をたくさん側室にしています。

家康の正室は生涯で2人。

その最初の正室が築山殿です。

ドラマではずいぶんツンツンと信長の娘徳姫(息子信康の嫁)の悪口を言っていました。

家康との夫婦仲もあまり良くない様子。

築山殿は今川義元の血筋です。

桶狭間の戦い以降、すっかり落ちぶれた今川家ですのに、今でもその血筋にこだわり世の中の流れに気がついていない愚かな女…という描かれ方ですね。

家康はこの築山殿に懲りて、側室は身分の低い女性ばかり好んだという説があります。

 

2017年の『おんな城主 直虎』では菜々緒さんが魅力的な築山殿を演じていらっしゃいました。

私の中では1988年『徳川家康』の池上季実子さんがとても可愛らしかった。

武田に内通していたという説がありますが、それはどうも疑わしい。

個人的に好きな歴史女性です。

 

妻煕子

明智光秀は生涯側室をもたず、煕子とは仲睦まじい夫婦でした。

桜の中で出会い、煕子はずっとピンク色のイメージの着物を召してらっしゃいました。

 

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出会いは桜の花びらの中でしたが、お別れは天正4(1576)年秋。

でも、光秀の煕子に花びらが舞っています。

静かな静かな最後でした。

 

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このブログで何度かお話してきましたが、貧しかった頃、煕子が自分の黒髪を売ってお金に換え、客人をご馳走でもてなしたという逸話を、ドラマの中では見ることができませんでした。

その逸話を最後の最後に、煕子は駒に打ち明けていました。

似たような話は内助の功の美談としてあちこちにあります。

実際、あちこちで行われていたのかもしれません。

大げさにとりあげず、こんなふうにサラリと打ち明ける今回の脚本と演出が私は好きです。

 

朝ドラにありがちな「妻が夫を支えてこそ、夫が出世し、幸せになる」をアピールする物語が私は苦手です。

 

明智光秀の子は?孫は?子孫は?

きしたまの子は戦を知らずに育つでしょうか。」と煕子は光秀に言って亡くなります。

残念だけど、きしの子、つまり光秀と煕子の孫である三宅重利(本能寺の変の後細川家の庇護を受けたとも)は、寛永14(1630)年12月30日、島原の乱の本渡での戦いにおいて自刃したのです。

この島原の乱が江戸時代最後の内戦になります。

 

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たまも非業の死を遂げますが、子孫は細川家の他、令和の皇室にもつながる血筋を残します。

あの元ソーリは細川家の血筋ですが、肥後国熊本藩で、途中養子を迎えていますので、彼は明智光秀及びたまの血はひいていません。

 

光秀が医者であったという説もありますが、子孫に医師が多いです。

日本初の医学博士であったり、現東京大学医学部教授であったり。

 

煕子さん、安心して。

きしたまはまだまだ苦難の道を歩くけど、子孫は立派になってますよ。

 

 

 

今回は女性の出演が多かったですね。

で、長篠の合戦はすっとばし?

ま、いいか。

 

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