紳士の国イギリス。
サッカー発祥の国、イギリス。
夏目漱石が留学していた国、イギリス。
マナーをとても重視している国、イギリス。
紅茶の国なのに、アイスティーがないイギリス。
明治時代、日本にとって、イギリスは憧れの国でした。
明治33(1900)年、夏目漱石は第五高等学校在学中に、文部省から2年間の英国留学を命ぜられました。
当時の東京駅周辺は原っぱでしたが、ロンドンではすでに地下鉄が開通していました。
漱石は西洋文化と日本文化の違いに直面しますが、西洋文化の受容形態に疑問をもつようにもなります。
その頃日本はロシアの勢力拡張に脅威を感じていました。
ロシアは北清事変(義和団事件)が収まったのちも十数万人の大軍を満州にとどめ、事実上、満州を軍事占領し、さらに清国と露清密約を結んで南下する気配を示していました。
韓国を勢力下におこうとしていた日本は、韓国問題と満州問題をめぐって正面からロシアと対立するにいたっていたのです。
桂太郎首相、小村寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えます。
当時、イギリスは勢力均衡の立場にあり、どことも同盟を結ばず「光栄ある孤立」を保っていました。
しかし、ヨーロッパのバルカン半島や東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れました。
そして、東アジアで立憲政治を実現するなど近代化を推進し、日清戦争に勝利をおさめた日本の国力を高く評価して日本との連携をはかり、日英同盟論を歓迎します。
明治35(1902)年1月30日、日英同盟協約が成立したのです。
今から119年前の今日です。
日英同盟協約は日本が欧米列強と結んだ初めての対等条約で、これは日本にとって欧米先進諸列強への仲間入りを意味するものでした。
こうして日本は国際政局に登場し、列強相互の対立を利用しつつ、対外的な勢力拡張を企てることになったのです。
そして日露戦争へと続きます。
参考文献