大政奉還は、小学校の歴史の時間に習いました。
260年続いた徳川の世が終わり、近代日本の幕開けです。
朝廷に幕府が政権を返上した大きな出来事です。
慶応3(1867)年のことです。
その数か月前、
あまり有名ではありませんね。
とても短い期間で消滅してしまいました。
その名のとおり、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた政治的提携です。
結ばれたのは慶応3(1867)年6月22日(旧暦)。
154年前の今日です。
目次
将軍慶喜誕生
幕府では、徳川家茂が亡くなったら、もう他に将軍になれるのは、将軍後見職一橋慶喜しかいません。
慶応2(1866)年、幕府崩壊寸前になおも政局を主導すべく、第15代将軍徳川慶喜となります。
薩土盟約
徳川慶喜と、倒幕路線をとり始めた薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政奉還・王政復古を通じて、平和的手段で公議政体へ移行しようと提起し、これを薩摩藩が同調したのが薩土盟約です。
6月22日、京都の三本木の料亭で薩摩藩から小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩から後藤象二郎・寺村左膳・真辺栄三郎・福岡孝弟の両藩首脳が会合し、それに坂本龍馬・中岡慎太郎が陪席します。
この席において後藤の大条理=大政奉還論を薩摩側の出席者が了解し、その方針に沿って盟約を結ぶことが決定します。
つまり新政の開始への手段として大政奉還による王政復古を採択し、武力倒幕を原則回避する方針となったわけです。
結局、両藩の思惑の違いにより実行に移されることなく2か月半で解消されます。
大政奉還
なんとか幕府を存続させ、薩長を抑えたいという土佐藩の山内豊信は、坂本龍馬・後藤象二郎らの意見をとり入れ、徳川慶喜に対して、「この際、名目的に政権だけは天皇に返しちゃいましょうよ。」と建白、意見を出します。
慶喜にしたら、同じ幕府がなくなるにしても(なにしろ崩壊寸前ですから💦)倒幕派に滅ぼされるよりも、自ら政権を朝廷に返すことで、新しい政権に自分も参加できるとの思惑があります。
天皇のもとで徳川家が主導権を確保したままの大名会議による政治形態です。
鳥羽・伏見の戦い
大政奉還から2か月後。
京都で大事件が起こります。
徳川と対立していた薩摩藩が突如御所を封鎖、慶喜を排除し、勝手に政府を作り上げてしまいます。
京都にいた慶喜は薩摩と闘うのではなく、大阪城へ退くことにします。
1868年正月、大坂城から旧幕府兵が京都に向かって進撃します。
これを迎え撃つ天皇政府軍、「官軍」と最初にぶつかった戦い、これが「鳥羽・伏見の戦い」です。
嫌(いや=18)がる幕府はむ(6)りや(8)り倒せ=1868年、戊辰戦争始まる
幕府側の敗因
圧倒的に優秀な武器を持っている新政府軍が勝つ…と思われがちですが、最近の研究で実は幕府側もかなり優秀な武器を持っていたのだと、6月16日のNHK『歴史探偵』で検証していました。
徳川は会津藩を合わせて1万5000の兵力、対する薩摩藩は長州と合わせてもわずか4000の兵力でした。
また、薩摩を上回るシャスポー銃など強力な武器をも持っていました。
しかし、油断し緊張感に欠ける徳川軍。大軍で京都に上れば薩摩は道を開けるであろうと慢心していたのです。
新選組などが頑張ったのですが、結果は徳川軍の壊滅でした。
慶喜、引退
あわてて江戸に帰り、謹慎。
以後、中央政治には一度も口を出しません。
旧幕府軍は「賊軍」、国家の反逆者という烙印を押されます。
薩長側は旧幕府勢力に反逆者の烙印を押すことに成功したわけです。
そんな慶喜の名誉を回復しようと奔走したのが、大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一だったのです。
薩土盟約、小学校の社会科の教科書どころか、大学受験用の参考書にも載ってなかった(笑)
受験生の皆さん、覚える必要ないみたいよ!