北海道。
その面積は日本の22%、その広さ83,450㎢。
20世紀前半、この大地の開拓に夢を抱き、全国から200万人を超える人が移り住みました。
開拓は繁栄の歴史でもあり、苦難と挫折の歩みでもありました。
目次
明治新政府による北海道開拓
小樽から
日本海に面する小樽。
20世紀初め、移住者たちの玄関口として、港町小樽はにぎわいました。
このころ明治政府は全国の農民たちに土地の無料貸付や渡航の費用援助などを宣伝し、盛んに入植を宣伝しました。
移住者は年間5万人を超えました。東北や北陸、四国などの農民が中心でした。
新天地北海道に活路を見出そうとした人たちです。
原野開拓
船で到着した後、北海道の奥へと向かうと、エドマツやトドマツなどの原生林です。
入植者たちはノコギリは斧を片手に開墾します。
まずは、豆やじゃがいもを作ります。
畑を作るというより、まずは自分たちの食べ物を作らなければならなかったのです。
困難な道のり
開拓は困難を極めました。
その大きな壁は、北海道の厳しい冬です。
囲炉裏にあたり、重ね着をし、フキやワラビの雑炊やヒエの団子など粗末な食事で飢えをしのぎました。
伐採の事故や冬の寒さで命を落とす人もいます。
8割を超える人が開拓に失敗し、土地を離れていったといいます。
北海道の海
北海道、海の開拓も進みました。
青森や秋田、岩手などから大勢の漁師が、ニシンを追って北海道に来ました。
干したニシンは開拓者の貴重な保存食になりました。
またニシンの搾りかすは肥料にもなり、米の栽培や生糸の生産を助けました。
豊富な海の幸のおかげで町や港が開かれていきました。
鉄道の開通
明治13年、札幌と小樽の間に鉄道が開通します。
東京、大阪に次ぐ全国で3番目の鉄道でした。
その後鉄道は急速に伸び、北は稚内、東は根室まで鉄道が敷かれ、北海道の開拓は進みます。
鉄道ができると、大正には各地に拠点となる都市ができあがっていきます。
函館には路面電車が走り、デパートができます。
北に位置する旭川も人口が増え、開拓地からの農作物の集産地として栄えます。
明治30年ころには札幌市に道庁がおかれ、北海道の中心となります。
内務省は道庁を通じて、北海道全体の開拓を指揮します。
進む開拓
大正に入ると北海道開拓は転換期を迎えます。
三井財閥など、日本有数の企業が北海道に入ってきます。
森林資源の近代的な活用、炭鉱開発、馬車から鉄道での輸送など、大量の資金を投入し最新の技術の導入で、北海道開拓は日本の近代化をも推し進めていきます。
開拓50周年の大正7(1918)年には、札幌にも路面電車が走り、人口は10万人を超え近代的な都市に発展します。
北海道開拓の犠牲者
アイヌの人たちの暮らし
急速に進む開拓の影で、昔から北海道の自然と暮らすアイヌの人々の暮らしは変わっていきます。
当時北海道には1万7千人のアイヌの人が暮らしていました。
開拓が進む前は、自由に野山で木の実をとったり狩りをして生活をしていました。
しかし明治政府は、アイヌの人の民族としての権利や文化を認めませんでした。
生活の場であった野山の国有化を進め、代わりに田畑を耕すことを強制します。
また政府はアイヌの人のサケ漁も禁止します。
子供たちにはアイヌ語を使うことを禁止します。
アイヌの人の伝統的な生活は失われていきました。
タコ部屋の人たち
北海道の開拓は昭和初期まで急ピッチで進みます。
しかし夢を打ち砕かれた人も少なくありません。
借金のカタに強制労働を強いられたタコ部屋の人たちがいます。
飯と味噌だけの粗末な食事で、1日12時間以上過酷な労働する毎日に命を落とす人もいました。
北海道各地の鉄道や道路の工事現場には今でもそういった人たちの遺骨が埋まっているといわれています。
戦争の影響
1914年、第一次世界大戦が勃発しました。
戦場となったヨーロッパの農産物が打撃を受けたため、小豆やエンドウの値段が高騰します。
北海道十勝地方は豆景気に沸くことになります。豆成金という言葉が生まれるほど、商人や農家は潤っていきます。
大正12年の関東大震災の復興のため、樺太の木材は重宝されます。
樺太では豊かな生活が送られるようになります。
マルハニチロ
海では陰りがみえたニシン漁に代わり、サケ・マス・カニ漁が盛んになります。
その先駆者は平塚常次郎(後の第6代運輸大臣)、堤清六(後に衆議院銀、弟は新潟県知事の亘四郎)の2人。現在のマルハニチロ前身を作ります。
彼らが作る缶詰はヨーロッパへと輸出され、国家の利益と威信を作る産業となっていきます。
雪との共存
大正から昭和にかけて人々を悩ませた北海道の冬の生活が大きく変わります。
スキーが伝えられ、ウィンタースポーツが盛んになっていきます。
また札幌農学校のアメリカ人教師が伝えたスケートを楽しむ人も増えてきます。
現在の札幌雪祭りの原型は小学校での冬の祭りで雪像を作ったことだと言われています。
開拓当初は冬の厳しさの象徴だった雪の生活を楽しむようになりました。
開拓の陰り、そして戦争へ
昭和4(1929)年、駒ケ岳が噴火します。
この噴火の半年後には昭和恐慌が始まり大きく景気が後退します。
昭和の幕開けとともに開拓に陰りが見え始めます。
またこのころ災害が相次ぎます。
昭和7(1932)年、米の生産地である空知地方に被害をもたらした石狩川の水害のため、道内の米の生産は例年の3割にまで落ち込みました。
生活が苦しくなった中、労働現場での問題も浮き彫りになります。
蟹工船、博愛丸の虐待事件が浮き彫りになります。
凶作、不景気、労働争議…
そんな中、日中戦争が起こり、太平洋戦争へと向かっていくのです。
NHK「映像の20世紀」の動画をYouTubeで見つけたので、興味ある北海道開拓についての記事をまとめてみました。
千住明さんの音楽が素晴らしいです。