歴史が古い国、中国。
高校時代の世界史、北宋というのは覚えている方も多いかと思います。
でも南宋というのは印象が薄くないですか?
「宋代の社会」として、北宋と南宋を一括りにされてしまうことが多いのです。
南宋ってどんな国
南宋(1127年~1279年)は、金の侵攻により滅んだ北宋王朝(960年~1127年)を
領土は北宋の約2/3に減少。6,000万人前後の人口を有し、153年間存続した巨大国家です。
都は臨安府(現在の杭州市)です。
世界史の教科書における南宋
高校の世界史の教科書で、南宋について意識した記述は政治史に関わる
■金■
山川出版社の世界史の教科書は何十年も前に出版された概説書とあまり違いがないのが現状です。
内藤湖南の「唐宋変革」論
それは、東洋史研究の先駆者内藤
内藤コナンって誰?探偵?
内藤湖南は明治から大正にかけて活躍した日本の東洋史学者です。
■唐宋変革論■
「唐宋変革」論では、唐と宋の間の変化に着目し、宋代以降は、徐々に「平民主義・地方分権」の傾向が現れてきたことを指摘しました。
両宋革期論
愛宕元、森田憲司編、昭和堂の『中国の歴史(下)』では、南宋時代を凝視したページがあります。
リンク
中国史上における南宋時代については、唐宋変革による中国的近世の会式として、北宋と一括りに論じられることが多く、また軍閥主義の台頭、専権宰相 の続出などに注目して、中華帝国としてはやや特異な時代としてとらえられる場合もある。しかし近年では、国家と社会の中間、両者の接点に位置するもの、例えば士大夫 、特にローカル・エリート(地域名望家)の動向、水利協同組織の運営、市鎮 に代表される新しいとしか現象等の考察をもとに、南宋を後世の明清時代との連続性の面から評価しようという立場、つまり北宋と南宋との均質性よりも差違性を強調する「両宋革期論 」も説得力をもって主張されるようになってきている。昭和堂「中国の歴史(下)」より引用
北宋時代の知識人たちは中央志向で天下国家のことを重視しました。
しかし南宋時代の知識人たちは地域志向となり、自らが基盤をおく地域社会(ローカル)のことが専らの関心事であったといいます。
南宋時代の3つの区分
南宋時代は対外関係などに重点を置いて3つの時代で区分することができます。
■南宋時代■
前期(高宗:1127年~1162年)
中期(孝宗、光宗:1162年~1194年)
後期(寧宗以降:1194年~1279年)
そしてさらにこの3つの時代にオーバーラップする形で、70年ほど強大な権力を握った専権宰相の時代があります。
前期
前期は再建の時代です。
高宗の即位、金軍の攻勢と南宋の混乱。そして秦檜 の登場と和議、海陵王の侵略がありました。
■秦檜とは ■
中期
中期は安定の時代です。
南宋の全盛であり、蛮族の反乱などはありましたが、平和で充実した時代でした。
後期
そして、後期は衰亡の時代です。
金の滅亡とモンゴルの侵略
南宋は金ではなくモンゴルによって滅びたんだね。
金との戦い、そして金との和議が繰り返された前期と中期、でも結局金は南宋より先に滅亡してしまいます。
金が1234年に滅亡した後は、南宋はモンゴルに振り回されるのです。滅亡に追いやられるのです。
「南宋」を学ぶにあたって~まとめ
南宋社会を把握するにあたって、社会の日常に関わる史料が欠如していることは大きなネックです。
このあたりは教科書5ページ分くらいです。
大学入学共通テストの出願は今日までですね。検定料の払い込みも同じく。
10月7日の消印有効です。
大学入学共通テストまであと100日。