前島密という名前を知らなくても、1円切手のこの肖像画は見たことある方も多いのではないでしょうか。
目次
前島密、何をした人?
前島密とはどんな人だったのでしょうか。
前島密が提案した郵便制度とは、飛脚にかわる西洋式郵便制度でした。
誰にでも利用できるものではなかった飛脚と違い、低額の切手で全国の宛先に届ける当時の日本としては画期的な制度です。
前島密が残した功績は郵便制度だけではありません。
鉄道施設の立案、新聞事業の育成、海運政策などなど。
前島密、出生と若き日
越後に生まれた前島密は幼くして父を亡くし、14歳で江戸に出て医学を修め蘭学・英語を学びます。苦学でした。
航海学を学ぶため函館にも赴きます。
黒船の来航を機に、国防を考え全国あちこちを見て回るようになるのです。
この旅を通して、「医者」をめざすより「国家国民を守る」ことの方が大事だと悟ります。
そして「英語」と「海」が果たす役割は大きい。そう考えました。
前島密、薩摩の偉人たちと知り合いになる
英語をマスターした前島密は鹿児島へ行きます。
しかし、薩摩が倒幕に動いていると知り、薩摩を出て江戸に向かいます。
薩長同盟が結ばれた時、前島密は岩倉具視と大久保利通を罵倒したそうです。
「幕府と薩長は胸襟を開いて提携し共に倶に此大事を成さしめんと欲したればなり」
新しい国家体制を作るのなら、薩長は協力して、また幕府も「猜疑と誤解を薩摩に対して懐くべきではない」と、外国が入ってきて植民地にならないようにと考えたのです。
残念ながらその後、日本は戊辰戦争に入っていきます。
前島密、明治維新の役人になる
そして、前島密は遠州中泉(静岡県磐田市)の奉行になっていました。
太政官制度が改正されて駿河藩産業係から新政府の民部省に出仕することになります。
幕臣から新政府の役人として働くことになったわけです。『青天を衝け』ではこのあたりから前島密が登場してますね。
鉄道憶測
明治2(1869)年、前島密34歳で新政府の民部省の官吏となります。
最初の仕事は鉄道敷設のための予算案の作成でした。
明治3(1870)年、大隈重信と伊藤博文に「京浜間に鉄道を作るといくらかかるのか」と問われます。さらに東京と神戸間の鉄道についても計算してくれと頼まれます。
建設費約1,100万両、営業収益600万両。その1/3を営業費にあてても268万両の利益がある。前島密はたった一晩で算出したそうです。
借金は5年で支払い終わり、毎年400万両の利益があると計算しました。
これが『鉄道憶測』です。
前島密の数学的能力がいかに優れていたかがわかります。
『青天を衝け』でも前島密が郵便制度の試算を論じている場面がありました。
留学、郵便創業、鉄道開通、日通設立
明治4(1871)年に郵便創業。
明治5(1872)年に東京横浜間に鉄道が開通します。
それまで飛脚をやっていた人たちの生活はどうなるのか。鉄道ができたことによってその人たちが失業するのではないか。
前島密はその問題を解決するために運送の会社を作ります。現在の日通(日本通運)です。
前島密、引退後
明治44(1911)年、神奈川県横須賀市芦名の浄楽寺の境内に別邸如々山荘を設け、76歳の前島密は隠居生活に入ります。
大正8(1919)年84歳で亡くなるまでそこで暮らします。
しかし明治の世になると新政府で働きます。
渋沢栄一もそうですが、勝海舟や榎本武揚も同じような道をたどりました。
そのことを福沢諭吉は「
勝海舟はその福沢諭吉からの非難に対して「行蔵は我に存す
つまり「俺はしたいように行動したんだよ。そんなこと知っちゃこっちゃないよ。」ということです。
ちなみに当時外務大臣に就いていた榎本武揚は「そのうちに返答する」と言っていましたが、返答しないままに福沢諭吉は亡くなりました。
郵便創業についての話が描かれる『青天を衝け』第29回「栄一、改正する」の再放送は、本日13:05からです。