暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

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汪兆銘って、どんな政治家?

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汪兆銘おうちょうめい中華民国の政治家でした。

汪兆銘孫文の側近です。

蒋介石しょうかいせきとは国民党の主導権をめぐって対立関係にありました。

21歳で日本に留学、法政大学で学ぶなど、知日派汪兆銘は、1940年3月に汪兆銘政権を樹立しました。

そして、その4年後に日本で亡くなっています。

 

目次

 

孫文の側近、そして蒋介石との対立

汪兆銘は、孫文の側近として、三民主義及び、連ソ・容共・扶助工農という国共合作という理念を忠実に守っていました。

1925年3月に孫文が死去、蒋介石と党の主導権をめぐって対立するようになります。

1927年には国共合作の破棄を宣言、1931年には国民政府を樹立して蒋介石に対抗します。

 

日本軍と講和

しかし、同年満州事変が起こります。

汪兆銘蒋介石と和解し、国民政府の一体化を計り日本に対抗しようとします。

汪兆銘は、満州から華北へと侵攻してくる日本に抵抗する力が不十分であると考え、「一面抵抗、一面交渉」の方針を打ち出し、日本軍と講和もはかるべきだと提唱します。

 

日本軍の工作

中国は政府を南京から武漢、さらに奥地の重慶に移して抗戦を続けます。

日本軍は広州・武漢を攻略するものの、広い農村地帯を支配できません。

COVID-19ですっかり有名になった武漢、世界史の教科書のこんな箇所に地名が載ってます。

戦線は伸びきったまま長期化の様相を呈してきたため、日本は東亜新秩序建設をかかげ、重慶政府に対抗して、南京に汪兆銘親日政権を設立させるのです。

 

■日本軍の裏工作■
日本軍部は秘密裏工作を進めて国民政府の反蒋介石派と接触し、その分裂をはかったのです。その対象となったのが蒋介石と対立していた汪兆銘でした。

 

汪兆銘は日本軍に利用されたのかしら。

 

汪兆銘政権の衰退

汪兆銘の政権下、中国の民衆はどうだったのでしょうか。

汪兆銘がどんなにきれいごとを言っても、日本軍の支配が続き、民衆は離反していきます。

日本軍は村の倉庫や家庭の米櫃の中身を奪っていきます。

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日本兵たちのさまざまな暴力もありました。

アヘンの取り締まりも十分ではない。

汪兆銘政権は民衆の支持を得られないままに衰退していきます。

 

汪兆銘の最期

日本が汪兆銘政権を作り、充実させ拡大させ、民衆の理解を得て、それによって日中戦争を終わりにさせよう、中国との和平をとりつけよう、汪兆銘政権が大きくなる事によって、蒋介石政権をも日本との和平に応じさせよう…という日本側の思い(陰謀?)は叶いませんでした。

汪兆銘政権は終わり、汪兆銘自身は太平洋戦争の終わりを待たずに、終戦の前年に南京の陸軍病院から転院してきた名古屋帝国大学病院で病死します。

1944年11月10日、77年前の今日のことでした。

 

名古屋大学医療センター構内には、現在も「汪兆銘の梅」といわれる梅の木が花を咲かせているそうです。

参考:名古屋大学医学部史料室

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画像はイメージです

 

 

 

余談ですが、帝国名古屋大学医学部付属病院に入院していた汪兆銘を最後に見舞ったのは宮崎龍介でした。

孫文を支援していた宮崎滔天の息子であり、柳原白蓮の夫です。

 

www.betty0918.biz

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