今回のブログは、以前「壬申の乱」について記した記事の続編のようなお話です。
古代最大の内乱「壬申の乱」
その後天武天皇となった大海人皇子。そして妻の
目次
持統天皇(鸕野讃良皇女)って?
中大兄皇子(後の天智天皇)の娘である
彼女は13歳の時に叔父である大海人皇子(後の天武天皇)と結婚します。
13歳で結婚!? しかも叔父さんと!?
あ、気にしないで。
昔はよくあることだったんで💦
天智天皇崩御後、672年の「壬申の乱」というピンチを大勝利で乗り越えた夫婦は、政界トップに躍り出ます。
この「壬申の乱」は、
鸕野讃良皇女は
大海人皇子に従って
東国に危難を避け
軍勢を集結させて
ともに
謀 を定めた『日本書紀』を現代語訳
673年、大海人皇子は天武天皇、鸕野は皇后となり、夫婦は新たな国づくりへと手を携えて進んでゆくのです。
日本史上最強のカップルです。
天武天皇と鸕野皇后が進めた国づくり
天武天皇は皇后と共に国づくりを進めていきます。
銅銭の始まり
飛鳥池工房遺跡。平成11年の発掘で、ここから日本最古の富本銭が出土しています。
この発見によって、日本の貨幣経済が天武の時代に始まったのではないかと言われています。
富本銭は銅そのものの価値ではなくて貨幣として流通させるために作られたのではないかと考えられるからです。
律令の編纂
天武天皇と鸕野皇后は、681年大極殿に出御し律令の編纂を命じます。
吉野の盟約
天武天皇は、我が子や甥っ子を吉野へ集め、皇位継承の変革を行います。
自分自身が甥っ子と揉めた「壬申の乱」で懲りたからです。
争いが行われないように「吉野の盟約」といわれる天武天皇の子供たちへのお約束です。
この結果、天武天皇と鸕野皇后の間に生まれた
相次ぐ夫と息子の死
しかし、そうはうまくいかなかった。
その1か月後、大津皇子(鸕野皇后の姉大田皇女の子)が謀反を企てているという密告がありました。
鸕野皇后は大津皇子が「吉野の盟約」に違反しているということで、すぐに捕らえ死を命じます。皇子享年24歳。
そして、それから3年。継承権第1位の草壁皇子が病死します。
草壁皇子の子である珂瑠皇子はまだ7歳。即位には幼すぎる。
なので、鸕野は「自分が女帝になっちゃお!」と決意するのです。
女帝持統天皇の誕生です。
即位儀礼
持統天皇即位にあたって、前例のない「即位儀礼の儀」を執り行います。
カリスマ性もなく、ましてや女帝。そのハンディを乗り越えるためです。
群臣が主体で王を推挙するというのが旧来のやり方でしたが、持統天皇の即位儀というのは王権主導で神としての即位でした。
「天の神から統治を委任された私が皇位に就くのよん。」という持統天皇のパフォーマンスアピールです。
「天皇は神である」と知らしめたわけです。
藤原京遷都
694年、藤原京を完成させます。
持統天皇が定めた皇位継承のルール
697年8月、珂瑠皇子は文武天皇として即位します。
群臣の推挙による兄弟関係の相続ではなく、天皇の直系相続を大切にした結果です。
こうすることによって、皇位継承の争いがなくなります。
持統天皇が王権主導の皇位継承のルールを決めたのです。継承者が幼くても後継者が就くことによってそれを実現させます。
譲位して譲位をする時に次を決める。これは明治になるまで、明治の最初に法制化されるまで続くわけです。
日本誕生
702年、後見である持統天皇は30年ぶりに遣唐使を復活させます。
その時に倭国という国名を「日の本」つまり日本という表記を変え、それを中国に認めさせました。
白村江の戦いから40年。
ある意味国家のスタートです。
崩御
持統天皇は大宝2年12月22日に亡くなります。西暦では703年1月13日。1319年前の今日です。享年58。
持統天皇は女帝でありながら、腰かけ天皇ではない。古代最大の内乱に勝利し、中央集権国家建設にまい進した夫天武天皇の意志を引き継ぎ、現在に続く日本の国の形を完成させたのです。
ただの中継ぎ女帝ではなく、日本国家を作った偉大な天皇でした。
2020年9月に放送されたBSプレミアムの『英雄たちの選択』をまとめさせていただきました。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。