今日は2月14日、バレンタインデーです。
バレンタインデーはいつから始まったのでしょうか。
今日はバレンタインデーの歴史のお話ではありません。
2月14日がバレンタインデーだという素敵な認識ができる何年も昔、2月14日に天皇陛下に意見した人物がいました。
時は1945年。
今から77年前のことです。
目次
近衛文麿
公家出身の西園寺公望(第12・14代首相)から絶大なる期待を受けていました。
近衛文麿は、やはり五摂家筆頭の公家出身、平安時代に栄華を極めた藤原氏の流れをくむ華族です。
近衛文麿は青年時代の第一次世界大戦終結直後に、英・米中心の国際平和主義に反対する評論を書いたりしたこともあって、陸軍側から政党政治と協調外交を打破する革新政治家として期待されたのです。
また、国民の間からも「政党政治の腐敗」に汚されていない政治家として、その若さ(総理就任時、数え年47歳)と清新さに大きな人気が集まったんです。
公爵家でありながら、マルクス主義を研究するなど自由闊達な人物でした。
身長180cm。ゴルフを愛するスポーツマン。
婦人雑誌では近衛文麿をアイドルのように取り上げ、アメリカの雑誌の表紙も飾ります。
かちゅう‐かい【華冑界】 貴族、または華族の社会。
日本国語大辞典より引用
英語も話せます。
今改めてその音声を聞くと、発音はあまりよろしくないけど。
西園寺公望は、近衛に軍の暴走を抑えてほしいと期待しました。
近衛は軍の抑え込みにかかったのですけど。
第3次近衛内閣では、太平洋戦争開戦直前で、日米交渉がまとまらず、嫌気がさしてしまい、近衛は「もう辞めさせてもらいます。陸軍大臣どうぞ。」と東条英機に丸投げしてしまいました。
これが有名な「丸投げ」ってやつね。
こうして東条英機陸軍大臣が首相となる東条英機内閣が成立。1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃及び陸軍のマレー半島上陸で、太平洋戦争が始まったわけです。
近衛上奏文
結果論ですが、1944年7月のサイパン陥落後、戦争をやめるか停戦すべく連合国との交渉を始めていれば、太平洋戦争の犠牲者はもっと少なかったのでしょう。
「もう戦争はやめたほうがいい」
そう思っていた人も当時いたのです。
近衛文麿もその1人でした。
1945年2月14日。
近衛は和紙8枚に主張を自筆した「近衛上奏文」を持ち、昭和天皇に上奏しました。
「敗戦はもはや必至です。この上は1日も早く戦争を終結すべきです。」
しかし、昭和天皇は近衛の上奏を採用しませんでした。
この2月14日の近衛上奏文を受け入れていれば、沖縄本土決戦はなかったし、広島長崎に原子爆弾投下もなかった。
ソ連も参戦しなかったでしょうから、シベリア抑留もなかったはず。
えぇ、後知恵ですけど。
終戦後
1945年8月15日。
太平洋戦争は終結します。
12月6日に、GHQから近衛の逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定します。
近衛は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に青酸カリを服毒して自殺します。
54歳2か月での死去は、日本の総理大臣経験者ではもっとも若い没年齢でした。
また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衛だけです。東條英機は戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされていますが未遂に終わっています。
近衛の遺書を息子に口述筆記させたのですが、この遺書はGHQにより没収されました。
近衛文麿は、今画像を見ても、なかなかのイケメン。
違う時代に生まれていれば、政界引退後はタレントのようにテレビに出演したり、本を執筆していたかもしれません。