戊辰戦争について、以前ブログにしました。
今日はその続編。
箱館戦争で自決を思いとどまった榎本武揚のその後について語らせてください。
目次
榎本武揚、自決の覚悟
榎本武揚は、箱館戦争で敗戦を覚悟し、オランダ留学時代から肌身離さず持っていた海自国際法の解説書『万国海律全書』を新政府軍の黒田清隆に託します。将来日本が外国と交渉する際に役立ててほしいと思ったのです。
そして自決のための短刀を手にした時、その短刀を部下に素手で掴まれ、自決を思いとどまるよう説得されました。
明治2(1869)年5月18日、榎本ら旧幕府軍は降伏し、五稜郭を明け渡します。
1年5か月に及んだ戊辰戦争が終わったのです。
投獄
榎本は投獄されます。木戸孝允ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆、福沢諭吉(福沢は後に榎本と対立するけれど)が助命を主張しました。
明治5(1872)年1月に特赦により出獄後、親類宅で謹慎します。
3月6日放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられます。150年前の今日です。
北海道開拓
榎本武揚は後に外交でも活躍しますが、まずは北海道開拓に重用されたのです。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部たちが登用されます。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し開拓に汗流した多くの者は旧幕臣や戊辰戦争で負けた敗者とされた多くの貧しい侍たちでした。
仙台伊達藩
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名を払拭しようと積極的に開拓に参加しました。
有珠に赴いた伊達邦成を始めとする彼らは北海道伊達氏の礎を築きました。
hiro-beans-attack-no1.hatenablog.com
東北の侍たち
そして明治7(1874)年屯田兵制度が始まると、兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは旧幕臣の東北の侍たちでした。
まとめ
明治維新は世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命でした。
それはたぶん敗者とされた者たちの思い、「私は幕府を葬り去るために将軍となったのだ(by『昔夢会筆記』)」と最後の将軍となる覚悟を決めた徳川慶喜であったり、旧幕府の侍たちの行く末を案じた徳川慶勝であったり、無血開城に導いた勝海舟であったり、そして引き際を決意することができた榎本武揚であったり…と、目の前のことだけではない、行く末と広い目と自分のことだけではない日本全体のことを考えられる敗者たちの(勝海舟は敗者じゃないけど)選択だったのではないかと思うのです。
私の全くの個人の感想です。
昨年9月に放送されたNHKBS『プロファイラーIF』をまとめてみました。
本当であれば、北海道開拓使で卒論を書きたかったのですが、コロナ禍では北海道に取材に行くのも難しく、ブログで語ることによって、自分を満足させています。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。