小学生の私に衝撃のニュースでした。
横井庄一さんが日本に帰国して2年後、1974年3月10日に終戦後もずっとルバング島に残留していた小野田寛郎陸軍少尉が救出されたのです。
48年前の今日です。
目次
生い立ち
小野田寛郎は、和歌山県の出身で県議会議員の父と教員の母の間に生まれた四男でした。
長兄は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校、次兄は東京帝国大学・陸軍経理学校卒の経理将校です。
小野田自身は久留米第一陸軍予備士官学校を卒業後、陸軍中野学校などを経て、予備陸軍少尉に任官、フィリピンに派遣されます。その後ルバング島に着任。
日本敗戦後
1945年8月になっても、任務解除の命令が届かなかったため、小野田は他の3人の仲間と、ルバング島に取り残されます。
仲間の1人は1950年に投降、残る2人も1954年、1972年に亡くなります。
小野田は独りになりました。
投降を呼びかけられても陸軍中野学校での教育を思い出し、敗戦は欺瞞であると信じていたものの、長年の戦いの疲労と孤独にさいなまれていきます。
救出
1974年2月、単独でルバング島に訪れていた自称冒険家の若者と巡り合います。
日の丸を掲げてテントを張っていたその若者を当初小野田は急襲し、銃をつきつけます。
しかし若者に「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿ではありますか?長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と訴えられると、落ち着きを取り戻した小野田は、上官の命令解除があれば任務を離れることを了承します。
その後小野田の元上官である元陸軍少佐がその冒険家の若者とルバング島に渡り、任務解除命令をだし、小野田は投降するのです。
3月10日の夜、小野田は軍刀を持ってフィリピン軍レーダー基地に移動し、ホセ・ランクード司令官に対して投降式を行いました。
小野田の長い大東亜戦争が終わりました。
自称冒険家、鈴木紀夫氏
さて、小野田寛郎との接触に成功した、自称冒険家の若者、鈴木紀夫氏。
彼は、その後結婚し、喫茶店を夫婦で営んでいましたが、冒険も続けており、雪男に会うのが夢でした。
1986年11月、ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難し、翌年10月に遺体が発見されました。享年37。
小野田は慰霊のためにヒマラヤを訪れています。
『ONODA 一万夜を超えて』
昨年、フランスのアルチュール・アラリ監督が小野田の戦時中のルバング島生活を描いた映画『ONODA 一万夜を超えて』を製作しました。
これ、すっごく観たい!
今も上映している映画館あるんですが。
でも今のご時世では、映画館に行くのは難しいし、何より私は長時間映画館の椅子に座っていることがだんだんと苦痛になってきました。
トイレ我慢できないんだもん!
そのうちAmazonプライムなどで観れるようになるでしょうか。
小野田さんに関しては、ルバング島に潜伏中に島民を30人以上殺害していると証言していたことなどもあり、複雑な思いを抱いている方もいらっしゃるかなと思います。
同じ長期残留日本兵であるのに、戦後の日本に馴染むのが早かった横井庄一さんとは対照的で、小野田さんは戦前とは大きく変貌した1970年代の日本に馴染めずにブラジルで牧場経営することを選びました。
そして、晩年は東京で暮らします。2014年1月に91歳で亡くなるまで。