先週は、佐藤浩市さん演じる上総広常の最期に号泣いたしました。
「#頼朝嫌い」がトレンド入りされたそうです(笑)
今日のブログは先日に続いて、来年大河ドラマ『どうする家康』のちょっと予習です。
目次
ウィリアム・アダムスって?
戦国時代、海のグローバル化が進む日本で徳川家康に外交顧問に抜擢されたのが、ウィリアム・アダムス、日本名
徳川家康との出会い
1600年、関が原の戦いの年の3月に、リーフデ号事件という、オランダ船の漂着事件が起こります。
漂着したのは豊後の臼杵湾。
このリーフデ号に載っていたイギリス人航海士がウィリアム・アダムスです。
世界一周の航路の探索の途上で日本に漂着しました。
ウィリアム・アダムスのお人柄
ウィリアム・アダムスに関しては、オランダ、イギリス、スペインと著述があちこちに残っています。
その中で彼はとても誠実な人であると記されています。
とにかく嘘をつかない、ごますりもしない。
そして何より知識人であった。
複数の言語を話し、数学や天文学の知識もあった。
そんな彼に家康は謁見(尋問?)し、ウィリアム・アダムスは家康のお気に入りとなりました。
大抜擢
ウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンを徳川家康が招いて、外交顧問にします。
その結果、オランダとイギリスがポルトガル・イスパニアの後を追っかけるように、平戸に商館を開設することになります。
まず1609年、オランダ商館の開設。イギリスは1613年です。
イギリスは10年後には商売ができなくなって帰っていきますが、オランダはその後幕末まで長く日本がつきあう唯一のヨーロッパの国になっていきます。
三浦按針
サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号は日本初の洋式帆船と伝えられています。
慶長10(1605)年家康の命を受け、船大工としての経験があったアダムスが建造しました。
その功績によりウィリアム・アダムスは、250万石取りの旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず相模国逸見に領地も与えられました。
三浦按針の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得ます。
徳川家康は、プロテスタント系であったアダムスをオランダとの仲介役にあたらせます。
最期
家康に信頼されていた三浦按針ことウィリアム・アダムス。
家康の死後、ウィリアム・アダムスは幕府の開港方針の変化に翻弄され、運命に翳りがでます。
二港制限令を撤回を求めて、将軍徳川秀忠に面会を求めるも叶いません。
アダムスは平戸で波乱に満ちた55年の生涯を閉じます。
元和6(1620)年4月24日。402年前の今日です。
安針塚駅
当初「軍需部前駅」として開業したのですが、軍施設の所在を明らかにすべきでないと判断され、昭和15(1940)年に三浦按針の供養塔の名に因み、「安針塚駅」に改名されました。
4月17日のブログの続編として、NHKBS『英雄たちの選択』をまとめさせていただきました。
マイナーな記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。