本日7月6日㈬より9月4日㈰まで、横須賀美術館にて「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」をやっています。
運慶は、鎌倉幕府と密接に結びつき、三浦一族の造仏にも関与しています。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は北条義時が主人公ですが、私は北条以外の坂東武者にもとても興味があります。
今日のブログは
目次
承久の乱
承久元(1219)年、将軍源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されました。
幕府は新将軍の推挙を要請しました。
後鳥羽上皇側はこれを拒否し、承久3(1221)年には執権北条義時追討の宣旨を発したことから承久の乱が起こりました。
三浦義村の弟胤義
当時、京都在勤中の三浦胤義は上皇に加担すると共に、鎌倉の兄三浦義村にも上皇側につくよう勧めました。
しかし兄義村は義時側につき、戦いは数に勝る幕府軍の圧勝で上皇は隠岐の島に流されました。
胤義は自刃しました。
承久3年6月15日、西暦だと1221年7月6日。
801年前の今日です。
残された子供たち
更に、大矢部(横須賀)の祖母のもとに預けられていた胤義の5人の子も、幕府から差出しを命じられ、祖母は必死の抵抗をしましたが、年長の豊王丸を残して4人の子は捕らえられ、田越川の川原で斬られました。
亡くなった4人の子は9歳7歳5歳3歳。
鎌倉時代はこういった悲惨な出来事がたくさんあります。
罪もない子供が犠牲になるのです。
胤義の心内
なぜ、三浦胤義は、幕府側ではなく、上皇側についたのでしょうか。
三浦胤義の妻は、
鎌倉一の美女と言われたそうです。(絶世の美女、多いなw)
実はこの妻は、元々2代目将軍源頼家の妻(側室)で、若君を1人もうけたのに、頼家は殺され、若君も後に「謀反の疑いあり」との言いがかり?で、北条義時に殺されています。
胤義夫妻はたいそう仲が良かったようで、胤義は殺された若君を思って泣き続ける妻のためにも、後鳥羽上皇の元で謀反を起こし、鎌倉に向かって矢を放ったわけです。
「軍議をしろ。今すぐしろ。とっととしろ。グズグズしてると討てるもんも討てなくなるから、さあ早く!」と朝廷に言ったとか言わないとか。
『承久記』
中世の史料となる公家の日記が、承久の乱の部分がことごとく抜け落ちており、承久の乱は、あまり「史料」が残されていません。
この出来事は戦記物語『承久記』で今に伝えられています。
とくに『慈光寺本承久記』が実際の動きに近いようです。
1979年大河ドラマ『草燃える』で三浦胤義を演じられたのは柴俊夫さん。
原作『北条政子』は高校生の時に拝読いたしました。内容よく覚えてないけどけっこう強烈でした。
永井路子さんが描く三浦一族について知りたいですね。
読んでみたい一冊。