鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、養和(1182)年、源頼朝が妻政子の安産祈願のために造営を始めたのだと伝えられています。
そうして誕生したのが源頼家です。
このブログでは、ドラマのネタバレではありませんが、史実としてのネタバレが含まれることがございます。
ご了承くださいませ。
目次
18歳で将軍になった源頼家
源頼家は源頼朝と北条政子の間の長男として1182年に生まれました。
生まれた時から「次代将軍」でした。
しかし、思いのほか父の頼朝が早くに亡くなり、彼は急遽18歳で将軍になります。
当時の感覚としては、18歳は立派な大人です。
なのに北条氏は「若造の将軍は心配だからこれからはベテラン親父たち13人の合議制にするわ。」と言いだしたたのです。
『鎌倉殿の13人』第27回「鎌倉殿と十三人」
昨日の『鎌倉殿の13人』では、頼家と御家人の間に(御家人と御家人の間にも)すでに不協和音です。
頼家は、夜な夜な蹴鞠の練習に励んでいます。
13人の合議制に納得いってませんね。
13人の合議制のメンバーを決めるくだりは笑えました。
最後の紀行で映された鎌倉の海がとてもきれいでした。
比企の乱
13人の合議制が頼家が家督を相続して3か月後。
それからが大変。
まずは梶原景時。そして比企氏。
比企氏は北条氏のライバルでした。
そして比企能員夫妻は頼家の乳母であり、比企能員の娘若狭局は頼家の側室です。
頼家の長男一幡を産んでいるのです。
『吾妻鏡』では頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の習慣を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられています。
また安達景盛の愛妾を強奪したような事件もあります。
その後、梶原景時の変や阿野全成の死、そして比企能員の変などを経て、頼家の立場は悪くなっていくのです。
頼家の死
頼家は建仁3(1203)年に将軍職を追われます。
伊豆に幽閉。
そして翌年に横死。元久元(1204)年7月18日。
818年前の今日です。