妙本寺がある鎌倉市の比企谷は、鎌倉幕府初期の御家人比企一族の屋敷跡とされます。
びっくりするくらい広い敷地の妙本寺。
JR鎌倉駅から徒歩8分です。
目次
比企能員
比企能員。漢字も読み方も難しい。
「ひきよしかず」と読みます。
源頼朝の乳母であった比企尼の猶子となり、比企氏の家督を継いだ
頼朝に信頼され、頼朝に長男頼家が誕生すると能員の妻が乳母に就任し、能員は乳母夫となります。
そして、娘の若狭局が頼家の側室となり、一幡を授かります。
頼朝の死後
建仁元(1199)年、頼朝が亡くなります。
その翌年から幕府はガタガタしてきます。
侍所の中心となってビシビシやっていた梶原景時が、みんなの反発を食らって、まず滅亡するのです。
源頼家の病気が発端だった
建仁3(1203)年7月、頼家が病気となり、ついには危篤状態となったため、8月には家督を日本国総守護職と関東28か国の地頭職を一幡(頼家の嫡子、母は若狭局)に、関西38か国の地頭職を千満(のちの実朝)に譲るという措置がとられます。
この措置を進めたのは、北条時政でしょう。
比企能員の乱
これに反発したのが頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父である比企能員です。
9月2日、娘の若狭局を通じて頼家に「北条時政を追討すべきだ。」と伝えさせると、頼家は能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたというのです。
819年前の今日です。
しかし、この密議を障子を隔てて聞いていたのが北条政子。
その事を父である時政に通報します。
時政は大江広元の支持をとりつけ、薬師如来の供養と称して、能員を誘い出し、暗殺します。
その一方で、北条義時らが比企邸を攻めます。
将軍頼家の外戚として北条氏に取って代わる勢いを持っていた比企家は、一族もろとも滅亡します。
頼家の嫡子一幡も火にかけられた炎の中で最期を遂げます🔥←諸説あり
比企家の墓
妙本寺に比企一族の墓があります。
お墓に「比企」の文字が見えます。
その後の鎌倉幕府
この後、頼家は将軍の地位を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され、1204年に暗殺されてしまい、将軍は弟の実朝になりましたとさ。
妙本寺
JR鎌倉駅からほど近い場所に、莫大な敷地に立つ妙本寺。
境内には源頼家の息子一幡の袖塚や比企一族の墓と伝えられる石塔など、一族の悲劇を伝える伝承が残ります。
比企能員の子、能本が後に日蓮聖人の弟子となり、日蓮聖人と一族のために堂を建てたのが妙本寺の始まりといわれています。
源頼朝というのは、(大河ドラマを観る限り)人間的にはともかく、政治家としては偉大です。
この後の2代目はツライ。
ついでに3代目もツライ。
鎌倉幕府3代目将軍源実朝は「金槐和歌集」という和歌集を残すんですが、政治的には何も残ってません😢