以前山下泰平氏著『簡易生活のすすめ』を紹介させていただきました。
その中で徳富蘇峰を紹介しています。
今日は徳富蘇峰についての考察です。
目次
徳富蘇峰って、何者?
『簡易生活のすすめ』では、徳富蘇峰が主張した『平民主義』についての考察が記されています。
徳富蘇峰は、思想家、歴史家、評論家です。
明治20(1887)年、蘇峰は『民友社』を設立します。
民友社には弟の蘆花をはじめ、山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社します。
民友社からは簡易生活の最初期の解説本『簡易生活』が出版されます。
蘇峰の生涯と戦争と思想の変化
雑誌と新聞で、蘇峰は藩閥政治を批判し、徹底した平民進歩主義を唱えます。
しかし、日清戦争の頃には帝国国権主義に傾斜、また松方内閣の内務省勅任参事官に就任します。それが原因で「変節漢」と非難を浴びます。
日露戦争では、蜜月関係にあった桂太郎首相の委嘱を受け、国論の統一に尽力します。
日露戦争講和(ポーツマス)条約を支持したことで、『国民新聞社』(蘇峰が民友社とは別に1890年に設立)は焼き討ちに遭います。(日比谷焼き討ち事件)
大正2年、桂太郎が亡くなると、政治からは引退し文筆活動に重きをおきます。
太平洋戦争時には、「日本文学報国会」「大日本言論報国会」の会長に就任しました。
戦時中、蘇峰は体制の意向に沿った主戦論的論調で国民を鼓舞します。
終戦後はA級戦犯容疑で熱海伊豆山の自宅に拘禁になり、後に不起訴処分が下されます。
終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、昭和27年には全巻完結します。
昭和32(1957)年11月2日、蘇峰は熱海で亡くなります。享年95(満94歳)。
65年前の今日です。
『近世日本国民史』全巻の発行は、没後に孫の徳富敬太郎の手によって成し遂げられました。
逗子と徳富蘇峰
徳富蘇峰記念館
神奈川県二宮にある徳富蘇峰記念館は、蘇峰の晩年の秘書を務めた塩崎彦市が昭和44年に塩崎邸内に建設しました。
ジャーナリストである蘇峰が生涯をかけて築いた広範な交遊を知ることができる貴重な手紙などを知ることができます。
記念館には、蘇峰にあてた46,000通余の書簡が保管されており、差出人は約12,000人にわたっています。
どこで繋がっているのか、たとえば中村屋の創業者相馬黒光とのやりとりの手紙などがあり、長寿を全うした蘇峰の90年以上にわたる交友関係は圧巻です。
徳富蘇峰はジャーナリストだったのでしょうか。
起業家だったのか文筆家だったのか政治家だったのか言論人だったのか。
徳富蘇峰を、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしているのは角川武蔵野ミュージアム館長の松岡正剛氏。 松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』
確かに。