高身長でイケメンでした。
備前国岡山城主の宇喜多直家の二男として、生まれたプリンスです。
しかし、父直家が天正9(1581)年に病死、秀家は10歳で家督を継ぎます。
それから波乱万丈の人生が始まります。
目次
宇喜多秀家は長生きだった
石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍で、天下を争った関が原の合戦。
1600年です。
しかし、参戦した武将たちのその後を見ると。
小早川秀秋 1602年死没
本多忠勝 1610年死没
徳川家康 1616年死没
島津義弘 1619年死没
上杉景勝 1623年死没
黒田長政 1623年死没
福島正則 1624年死没
毛利輝元 1625年死没
細川忠興 1645年死没
しかし宇喜多秀家が亡くなったのは、1655年。人生50年といわれたこの時代に、実に84歳という長寿でした。
豊臣秀吉に寵愛されたエリート武将
わずか10歳で57万石という大国を治めることになった宇喜多秀家。
そんな秀家を我が子のように可愛がったのは、天下人豊臣秀吉。
秀吉は自らの養女豪姫(前田利家の娘)を秀家の正室として嫁がせ、秀吉と秀家は義理の親子となったのです。
秀吉は豪姫に常々「豪姫には三国一の婿を」と望んでいたわけですから、秀家がいかに可愛がられていたかがわかります。
秀家は出世街道まっしぐらです。
秀吉の後押しにより、従三位という位を与えられます。
文禄の役では21歳にして総大将となり。
秀吉が高齢になると、五大老の一員にもなります。
秀家、人生の転機
しかし。
秀家の人生に大きな転機が訪れたのは、まず秀吉の死。
秀家の権力を支え、父親のような存在であった秀吉。
その秀吉の死の数年後には関が原の戦いが起こります。
秀家は西軍の副大将となります。
八丈島での生活
関が原の合戦で西軍だった武将が、斬首される中、加賀前田家の助命嘆願の計らいで、秀家は死罪を免れ生き延びます。
しかし、妻である豪姫とは引き離され、宇喜多家の領地は没収、秀家は八丈島に島流しにされます。
江戸時代になり、八丈島は徳川家の管轄になります。
秀家は公式史上初、流刑の地になった八丈島への第一号の流人でした。
絶海の孤島、八丈島。
当時は本土との交流もなく、それは過酷な環境の地だったのです。
秀家は自ら畑を耕し、水を引き、作物を作ります。
米はできなかったので、ひえとかあわとか。
魚を釣ります。くさやとか、最初は慣れなかったよね。でも臭さになれるとすごく美味しいんだってよ。
秀家は島民に読み書きを教え、その御礼として農作物をもらうこともありました。
八丈島の人は長生きが多い
伊豆日記に、八丈島に関してこんな記述があります。
古き昔より八十九十のものは
珍しくなく
百歳にならなければ
長生きとはいわず
八丈島は、当時から80代90代が珍しくない長寿の島だったのです。
『伊豆日記』には「粗食にして心を労することなき故」という記述があります。
質素ながら、身体にいい食材で作った料理を食べ、心穏やかに暮らす。
それが島の長寿を支えていたのです。
魚
島といえば、海に囲まれていますから、魚が獲れます。
魚にはDHAやカルシウムが豊富です。
悪玉コレステロールの減少や高血圧の予防が期待できます。
海藻
また海藻が獲れますね。
海藻には鉄分、カルシウム、ビタミン、食物繊維もたっぷり摂ることができます。
あしたば
島に自生する「あしたば」という葉っぱ野菜。
長寿草の異名をもつ「あしたば」はセリ科の植物で、カルコンというポリフェノールを含んでいます。
カルコンには抗酸化作用があり動脈硬化の予防につながります。
脂肪燃焼にもすぐれ、生活習慣病の予防になるのです。
島の人たちは、「あしたば」を天ぷらやおひたし、パスタなどに使い、重宝しているそうです。
人とのコミュニケーション
八丈島の人々は、今も昔も助け合いの精神が強くあります。
秀家も島では、たくさんの島民と交流がありました。
イケメンだったので、100人の娘が彼を見に来たとの逸話も。
しかし、現地妻での記録が一切ないことから現地妻はいなかったと考えられます。by『八丈島流人銘々伝』
大名に復帰しないかい?
八丈島での生活にも慣れた頃。
徳川家康が亡くなります。
1616年。秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けますが、これを断り、秀家は八丈島に留まります。
結局、秀家は一緒に流罪となった2人の息子と共に、50年もの長い期間を八丈島で過ごすのです。
最期
そして最期。
友人に会いに行く途中で秀家は亡くなります。きっと友人がたくさんいたんだね。
明暦元年11月20日。西暦だと1655年12月17日。
367年前の今日です。
84歳という長寿でした。
関が原の合戦に参戦した大名としては最も長く生きたのです。
秀家の死後
八丈島で共に過ごした2人の息子はそれぞれ島の娘と結婚し、子孫を繋げました。
明治以降、宇喜多一族は赦免となり、元加賀藩主前田氏の庇護の下で東京都の前田家の土地に移住しますが、そのうち何名かは数年後に八丈島に戻ります。
この島に戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守り続けています。
そして、東京都の東光寺、また石川県金沢市の大蓮寺にもお墓があります。
正室豪姫が前田利家の娘である縁で、江戸の加賀屋敷のあった板橋区と前田百万石のお膝元である金沢市でも弔っているのでしょう。
まとめ
大名としての生活には戻らず、八丈島で平和に穏やかに生涯を50年にわたって送った宇喜多秀家。
関ケ原の合戦では敗北しましたが、「人生の成功者」といえるのではないでしょうか。
また、何百年にもわたって、宇喜多家を庇護し、援助し、迎え入れた加賀前田藩の優しさ義理堅さに感動すら覚えるのです。
私は個人的に2016年『真田丸』で宇喜多秀家を演じられた高橋和也さんが印象に残っています。