永禄2(1559)年3月6日、松平信康は松平元康(後の徳川家康)の長男として駿府で生まれます。
464年前の今日です。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしますが、桶狭間の戦いの後に徳川軍に捕らえられた鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移ります。
父家康の人質時代
父である徳川家康は同じく少年(8歳)から青年になる時期に今川家で11年間を人質生活として送りました。
「どうする家康」で描かれていたように、今川義元からは辛い生活を強いられたのではなく、教育係であった
晩年家康が岡崎ではなく、駿府に戻ってきたのも、静岡に良い思い出が残っていたからではないかと考察する研究者の方もいらっしゃいます。
9歳で信長の娘と結婚
桶狭間の戦いの後、家康が妻子可愛さに駿府に戻り今川についていたら、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。
しかし家康は、妻の築山殿(瀬名)と信康(竹千代)を岡崎に呼び寄せました。
「どうする家康」では救出劇で服部半蔵が大活躍しましたね。
信康は9歳の時に、織田信長の娘である徳姫と結婚します。
信康自刃事件
この徳姫が天正7(1579)年に父信長に対して酒井忠次を通して、信康と築山殿の素行の悪さなどの悪口を書いた手紙を出したことにより、信長が家康に信康の切腹を要求し、これを家康が承諾したというのです。これは幕府成立後の徳川史観の三河物語による通説です。
信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ by「三河物語」
この時信康は21歳。
信長はついでに築山殿も殺せという。
そんな信長の命令には家康も困ったことだろうね。
しかし、実は徳川家は織田信長からの命より以前から、内紛状態にあったのではないかという研究者の方もいます。
徳川の家臣は、織田か、武田(信玄)か…と二分されていたというのです。
信康は家臣たちや築山殿と共に武田方に内通していたのではないか?
家康としては、織田か武田かどちらにつくかはっきりさせなければならない。
家康は妻子を処分し、織田との同盟を継続させることを決意します。
築山殿を家臣に殺させ、信康は切腹を命じられるのです。
悲劇の最期にいきつくまでをどのように描くのでしょうね。