暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

蝦夷地と呼ばれた北海道

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

北海道はでっかいど~

北海道はその昔、蝦夷と呼ばれていました。

そこに住んでいたのはアイヌの人たちでした。

 

目次

 

蝦夷の祖(?)、蠣崎季繁

北海道が蝦夷地と呼ばれた時代。

もともとは蠣崎氏かきざきしという、室町時代後期に北海道に進出した日本人の武家勢力がいました。

蠣崎季繁かきざきすえしげ室町時代中期の武士です。

若狭国の守護武田信繁の近親で、蝦夷地に渡って下之国安東政季の娘婿となり、蠣崎氏を名乗って花沢館(現在の北海道檜山郡上ノ国町)に住んだとされますが、様々な伝承があり定かではありません。

生誕は不明ですが、亡くなったのは寛正3(1462)年5月12日。

561年前の今日です。

 

松前藩の政治

蠣崎氏は、文禄元(1593)年、秀吉から蝦夷島主として承認され、松前を名乗り、近世松前藩の礎を築きます。

松前氏は松前藩として一応大名扱いです。

石高は1万石ということになっていますが、松前藩の主樽経済は、アイヌの人々との交易です。

そこで家臣に、石高で500石とか200石とかやれないもんだから、アイヌの人々との交易をする権利、商売をする権利を家臣団に与えていきます。

「このマーケットはお前にまかせる」というふうに与えていった。

これを商場知行制あきないばちぎょうせいといいます。

 

ところが、あくどい商売ばっかりするもんだから、誇り高きアイヌの人々が反乱を起こしました。

室町時代にも、道南でコシャマインの乱(1457年)が起こりましたし。

有名なのは1669年のシャクシャインの戦い」です。

www.betty0918.biz

 

鎮圧はされますが、このシャクシャインの乱を1つの教訓とし、武士たちが直接商売するのはいけない、やっぱり商売は商人に任せよう、すなわちアイヌの人々との蝦夷地交易を、本土から来た商人に任せて、その連中から税金を取る形にしようということになっていきます。

武士が前面に出る交易ではなく、商人に、一定の場所を請け負わせ、商売の権利を認めてやる代わりに税金をとるというやり方、場所請負制ばしょうけおいせいに変わっていったのですね。

 

 
江戸時代の長崎・対馬・薩摩と同じように、四つ口外交のひとつである松前
お米がとれない地域である松前藩は、交易する場所を家臣に与え、その利益を収入にしていましたが、それが請負制に変わっていったわけです。
アイヌの人たちは、そのアイデンティティを残しながらも和人の支配を受けることになります。

オムシャ図 平澤屏山図(明治4年)
和人が上座に、アイヌの人たちがひれ伏しています。
 
■平澤屏山■
平澤屏山は、江戸時代末期から明治にかけての日本の絵師。アイヌの生活をモチーフに数々の作品を描き、アイヌ絵を代表する絵師。
 

蝦夷

アイヌ人が作った蝦夷えぞにしきが江戸時代に大流行し、日本の文化をささえました。
舞台映えする歌舞伎での派手な衣装に蝦夷錦はぴったりでしたし、京都祇園祭山鉾巡業やまぼこじゅんこうにも使われました。
江戸時代、蝦夷錦の素材である生糸は寒い北海道で作ることができませんでした。
探検家間宮林蔵まみやりんぞう(1780~1844)は、蝦夷錦がどこからくるのか調査しました。間宮林蔵は幕府の隠密のような仕事をしていて、松前藩が密貿易をしているのではないかと疑っていたのです。
蝦夷錦は清王朝(中国)からアイヌへと渡ったのではないかと思われます。鎖国と呼ばれる状態の中、清王朝からシルクロードを渡り、蝦夷へ、そして日本へ渡ってきたのではないかと考えられます。
松前藩から蝦夷錦をもってくるよう命じられたアイヌの人たちは、それを提供し、安い値段でたたかれていたという悲しい歴史です。
 

 
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

 

受験勉強中の高校生の方は、「蠣崎氏が松前氏になったこと」「シャクシャインの戦い」「商場知行制」「場所請負制」などを覚えておくといいですね。