暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

米不足の歴史と背景

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土鍋ごはん、大好き

お米、少しは店頭に並ぶようになってきました。

それでも閉店間際の夜にはお店の棚は空っぽですし、以前のように好きな銘柄を選ぶという状態ではありません。

私たち日本人は、米の飯を愛着と尊敬の気持ちを込めて「御飯ごはん」と呼んでいます。

そう、日本人は米食民族です。

だから、お米が不足してはとても困ります。

 

しかし、お米が不足したのは今回が初めてではありません。

1993年?

いえ、そのもっと昔から、いつの時代にもお米は絶えず不足していたのだという研究があります。

 

目次

 

日本のお米事情

稲は高温多雨の日本の気候に適していて収穫量は多いのですが、国土の七割が森林であり、水田にできる平地が少ないために、稲作を始めた弥生の昔からつい近年まで民衆が十分に食べるだけのお米は収穫できませんでした。

そのため、農民たちは米を作っても年貢に差出し、お米のご飯を食べることができずに粟や稗の雑炊で我慢していたのです。

一般の民衆がどうにかお米のご飯を食べられるようになったのは江戸時代からであり、誰でも白いご飯をお腹いっぱい食べられるようになったのは第二次世界大戦後のことです。

 

弥生時代

弥生時代の登呂遺跡を調べてみても、水田から収穫できる米は住民が必要とする半分もなく、縄文時代のように木の実を採取して不足を補っていたと思われます。

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奈良時代

奈良時代の農民は班田収授の制度により貸与される口分田から収穫した米の三割を税金などで取り上げられ、手許に残った米、1日約5合で一家が暮らしていました。

土間に藁を敷いて家族で雑魚寝をし、何日も飯を炊いていないので竈には火の気がなく、米を蒸すこしきには蜘蛛が巣を張っている 山上憶良貧窮問答歌」より

 

農民は収穫した米の大半を領主に取り上げられ、粟や麦を食べて過ごさなければなりませんでした。

頻発する飢餓と戦乱により多くの食料難民が発生して都に押し寄せ、餓死するものもいました。

 

鎌倉~室町時代

鎌倉時代の初め、鴨長明はその著『方丈記』に「五穀稔らず 飢え死にするもの多し」「飢え死ぬるもののたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり」と、平安京の人口の5分の1にも及ぶ餓死者が出たことを書き留めています。

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室町時代には本願寺蓮如上人でさえ奥州地方を巡教した折に農家で受けたもてなしは稗粥であったと伝えられています。

 

江戸時代

江戸時代になっても幕府は百姓に、米は年貢に差し出して雑穀の雑炊を食べて過ごすように強制していました。

田中丘隅『民間省要みんかんせいよう』(1721)や西川如見『百姓嚢ひゃくしょうぶくろ』(1721)などの記録によれば、地方の農村での米食は稀で、さつまいもや麦、雑穀の常食が一般的であったことがわかります。

さらに、稲が不作になるたびに大飢饉が起きます。

幕末に起きた天保の大飢饉では丹波から京都に入る米が例年の40分の1に減り米価が3倍に跳ね上がりました。

民衆の不満は高まり、大坂では大塩平八郎の乱が起きます。

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明治~大正時代

米不足は明治になっても続いています。

明治20年ごろでも都市部では白いご飯を食べていましたが、農村では麦、雑穀が6割、米が4割の混ぜご飯を食べていました。

NHK朝ドラ『おしん』には明治40年代、山形県の寒村の貧しい農家の暮らしが描かれています。

主人公おしんが生まれた農家では米が足りないので大根めしを食べて我慢していました。

B・H・チェンバレン『日本軍物志』(1939)によると

1880年代の様子として「基本的な食物は米である」としながら「貧困な田舎では、米の代わりに大麦、きびやその他の安価な穀物であるー米には魚と卵、新鮮なものを漬物にした野菜が少量つく。大豆は特に重要とされている」とあります。

 

日清戦争日露戦争第一次大戦後に起きた好景気により都市部の米の需要が増えると米不足はますます深刻になります。

大正7年には米の買い占めが起きて米の値段が4倍にも値上がりしたから、全国各地で主婦たちが大挙して米屋に押しかけて安売りを強要するという米騒動が起きます。

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第二次世界大戦とその後

第二次大戦が始まると米不足が激しくなります。

農村では成年男子が徴兵されて労働力が足りなくなり、米の生産量が急低下するのです。

昭和20年の敗戦後には、さつまいも、かぼちゃ、さらには豆粕やふすま、米ぬか、芋の茎まで主食変わりに食べ、飢えを凌ぎます。

昭和21年には極端な米不足に抗議するデモ隊が皇居に乱入するという事件が起きます。

その4年後の国会では第3次吉田内閣の池田勇人蔵相が「貧乏人は麦飯を食え」と答弁したと責められて大騒ぎになります。

 

昭和40年代、米不足は解消します。

米の生産量が増えたのが理由ではなく、パン食が増え、高カロリーの肉料理や油料理をたべるようになったので、米を食べるのが戦前の3分の1に減ったのです。

明治維新以降、洋風の肉料理や乳製品が入ってきたにも関わらず、日本の家庭の食卓に浸透するにはかなり時間がかかったといえるかもしれません。

私たちの先祖が営々と苦労して開墾し拡大してきた水田。

それが休耕田になってしまっている所も多くあり。

 

米は日本の主食であり、国内では唯一十分に自給できる貴重な食糧なのです。

持続可能な経済社会を目指すために、国内農業を社会全体で支援できればと、私のようなシロウトでも考えます。

 

参考文献⤵

 

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今日のタイトルは AI さんにお願いしました。

意外にシンプルなタイトルになりましたね。