治承4(1180)年10月6日、石橋山の合戦で敗北を喫した源頼朝は房総半島から武蔵国を経て、相模国の鎌倉に入ります。
884年前の今日です。
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鎌倉
鎌倉は、かつて父義朝と兄義平が住んだ地です。
伊勢神宮の文書を集めた『天養記』には、頼朝の父義朝が館を構えていたことが記されており、頼朝以前の鎌倉の姿を伝えています。
頼朝は八幡宮を現在の場所に移し、大倉の地を御所と定め、150年続く鎌倉幕府の基礎を築きます。
鎌倉は鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げることになります。
この1180年を「鎌倉幕府成立の年」とする研究者もいます。
鎌倉幕府はイイクニツクロウの1192年じゃないの?源頼朝が征夷大将軍になった年。
「鎌倉幕府成立の年」については、今いろいろな研究があるのですよ。
頼朝は征夷大将軍になりたかったのか?
源頼朝にふさわしい役職は何か。
『山槐記』によると、大将軍でも何が1番縁起がいいのか考察しています。
「惣官」や「征夷大将軍」が候補にあがります。
しかし「惣官」は平宗盛に、征東大将軍は木曾義仲に与えた官職。平宗盛も木曾義仲も滅びてしまったわけで縁起が悪い。
で、坂上田村麻呂の成功例を思い、坂上田村麻呂の征夷大将軍が縁起がよくてこれがいいのではないかとなり、頼朝は征夷大将軍に就任します。
しかし、実は頼朝はまもなく征夷大将軍の辞表を提出します。
2代頼家が家督を継いだ時は左近衛中将であり、鎌倉幕府初期には、トップが必ずしも征夷大将軍である必要はなかったのです。
「幕府」とは何ぞや
そもそも「幕府」の語源は中国で出征中の将軍が戦陣に幕を張って軍営したことによります。
今のような「武家政権」という意味で使われるようになるのは幕末以降で、徳川政権を「公儀」に代えて「幕府」と呼ぶようになりました。
帝国大学国史科の教科書として明治23(1890)年に刊行された『稿本国史眼』では、鎌倉、室町、徳川の3政権のみを幕府とし、成立には征夷大将軍への任命が必須とひもづけます。
現在言われている幕府という語は、歴史学者たちが国家的権限を備えたある存在をそう呼ぼうと決める上での都合か?
鎌倉幕府は、頼朝が当初は謀反人の立場にあったことから反乱軍の権力として形成され、朝廷がそれを黙認した結果、地頭の設置をはじめ、非常に高い自立性を持つことになります。
平家滅亡まで
1180年は6年間に及ぶ内乱の契機となりましす。
以仁王の挙兵、波志田山合戦、衣笠城合戦、富士川の戦いを経て、平清盛が病死します。
『鎌倉殿の13人』以来、源頼朝を語る時、いつも大泉洋さんが浮かんでくる😅