以前、徳富蘇峰について記事にした時。
貯め代(
陸羯南は、明治期のジャーナリストであり政治評論家です。
新聞人として
地方から上京し、ジャーナリストになった彼らの夢は紆余曲折ありながらも叶ったのでしょうか。
目次
陸羯南の若さゆえの苦難
安政4年10月14日。
西暦ですと、1857年11月30日に陸羯南は生まれたのです。
167年前の今日ですね。
明治9(1876)年司法省方学校に入学するも、賄征伐事件に関連して退学処分を受けます。(当時の校長は薩摩人)
帰郷して新聞社に入り、
ジャーナリストへの道
明治16年太政官御用掛となり文書局に勤務。
明治18年に内閣官報局編輯課長となるも21年に退職。
谷千城、杉浦重剛らの支援を得て「東京電報」を創刊、明治22年これを新聞「日本」と改題し主筆兼社主となります。
明治25(1892)年、隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見ました。
正岡子規は「生涯の恩人」と感謝します。
また、後に徳富蘇峰はこの頃の陸羯南を「新聞記者の黄金時代は、恐らくは明治の中期であった。羯南君は実に新聞記者黄金時代に於ける、或る方面の代表者であった。」と評価しています。昭和14年1月東京日日新聞より
若くして結核で亡くなる
陸羯南は明治36(1903)年から翌年にかけ米欧に旅行し、帰国後肺結核を発症。
明治40(1907)年に鎌倉にて亡くなります。51歳。
陸羯南から徳富蘇峰への年賀状
徳冨蘇峰と陸羯南は対立する主張を展開し、2人はライバルという見方をされていました。
しかし日清戦争前後になると対外硬運動で連帯します。
徳冨蘇峰記念館に、陸羯南から徳富蘇峰に宛てた年賀状が残っています。
明治22年1月7日付のその年賀状には「恭賀新年 併セテ平素ノ疎濶ヲ奉謝候」とあります。
年賀状を送る習慣
明治4年に郵便制度が発足しその後の郵便はがき発行によって、明治20年代初期の頃には年賀状を送る習慣も広く普及してきました。
明治32年には年賀はがきの取り扱いが開始され、昭和24年になって現行のお年玉年賀はがきの発行に至りました。
年賀状の準備、主人の分と義父の分はおわってますが、これから妹夫婦の分を作成しなくては。
妹からまだデザインをどれにするか返事がこない😞💦