小さなお子様のいる家庭では、「休日のショッピングモール」はとても過ごしやすい場所です。
遊び場あり、フードコートあり。
足りなくなったら(ウェットティッシュとか、飲み物とか、お菓子とか、着替えとか)すぐに買える。
出生から幼少期
小林一三は、裕福な家に明治6(1873)年1月3日に生まれました。
152年前の今日です。
1月3日に生まれたから「
なんて単純な命名。
生まれてすぐに母を亡くし、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られて育ちます。
鉄道を作る
大学卒業後から14年勤めた銀行を辞めた一三は、大阪で鉄道会社の発起人となります。
のちの阪急電鉄ですね。
近畿付近にはいくつもの電鉄が発起された
日露戦後に於ける新事業の代表的記号として歓迎され、箕面有馬電車も花々しく出発したものであった
『逸翁自叙伝』より
ただ、当時は電車の行先である箕面や宝塚の人口は少なく、十分な収益が見込めません。
一三は宝塚へ行く途中の池田に目をつけます。
畑だらけの池田に住宅地を作り、大阪に通勤する人を電車の乗客として確保しようとしたのです。
日清戦争から日露戦争後にかけて工業化が進み、当時大阪の人口は、明治31年の人口81万人が10年後には123万人に膨れ上がっていました。
一三は勤め人たちが、大阪ではなく郊外に住むようになると考えていました。
人口密集の都市から、環境のよい池田や箕面に住宅用の分譲地を売り出します。
そして鉄道ができたのです。
娯楽施設を建設する
箕面線開業から数年後、娯楽施設を作ろうと一三は考えます。
しかし、動物園もプールもうまくいかず。
で、あたったのが宝塚唱歌隊でした。それが宝塚少女歌劇団となります。
一三は鉄道だけにとどまらない新しい文化を創り上げたのです。
昭和4(1929)年4月15日。
一三は日本初の駅直結の百貨店阪急百貨店が開業します。
1階は駅、2~6階は衣料品や化粧品などの売り場、8階は洋食の食堂です。
こうして、百貨店目的の乗客も増え、鉄道開業時には年間360万人程度だった乗客数は、30年後の昭和15年には1億人を超えました。
小林一三の世界観
一三は早くに両親と別れて暮らすことになり、「家族」に縛られることがありませんでした。
核家族を中心に日本は変わる、そんな時代がくるとわかっていたのではないか。
鉄道も百貨店も宝塚も、直系家族型の延長の資本主義ではない核家族型の資本主義の発想でした。
徹底したお客様目線と、自然にお客様を呼べるようなアイディア。
それが成功の秘訣でしょうか。
お正月、小さなお子様を連れて「ショッピングモールで遊ばせようか。ついでにお昼食べて買い物もして。」と考える家族連れ。
そんな21世紀の需要を小林一三は大正時代に予感できていたのかな。
NHK朝ドラ『わろてんか』で高橋一生さんが演じた伊能栞は小林一三がモチーフではないかと言われています。
『らんまん』には「小林一三」の名前でちょこっと登場していました。
元テニスプレーヤーの松岡修造さんは小林一三の曾孫になります。