「みだれ髪」や「君死にたまふこと勿れ」で有名な与謝野晶子は、歌人のイメージが強いかと思いますが、評論家でもありました。
政治に対しても⤵
民衆の食糧騒動は劇烈を極めて対象の歴史に意外の
汚點 を留めるに到りました。寺内内閣は、どうして民衆の生命に関する問題をこうまで危険に
瀕 せしめたのでせうか。「太陽」大正7年9月「食料騒動に就て」
スペイン風邪の流行時には⤵
米騒動の時にはおもだった都市で五人以上集まって歩くことを禁じました。政府はなぜいち早くこの危険(スペイン風邪流行のこと)を防止するために、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでせうか。「横浜貿易新新報」大正7年11月10日「感冒の床から」
また「選挙」に関しては⤵
と手厳しい。
婦人・教育・政治・思想まで、与謝野晶子が出版した評論集は15冊にのぼります。
晶子が生涯にわたって論評し続けたのは「女性の在り方」「男女の平等」についてでした。
その晶子が大正7(1918)年に婦人公論3月号で『女子の徹底した独立』という論文を発表すると、これに噛みついたのが平塚らいてうでした。
目次
平塚らいてう
平塚らいてうは、明治19(1886)年2月10日、東京の裕福な家庭で生まれます。
139年前の今日です。
父親は明治政府の高級官吏でした。
日本女子大学校(現日本女子大学)を卒業しており、その姿はNHK朝ドラ『あさが来た』で大島優子さんが演じていらっしゃいます。
与謝野晶子と平塚らいてうの私生活
与謝野晶子の夫は与謝野鉄幹ですが、有名な略奪婚ですし、平塚らいてうは22歳の時に夏目漱石の弟子と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、その後5歳年下の奥村博史と事実婚(夫婦別姓)で二児をもうけています。
どちらも恋愛に関してはなかなか情熱的というか、褒められたものではないというか。
与謝野鉄幹は明治41年11月に『明星』が廃刊になると無職同然でしたし、奥村博史は売れない画家でヒモ状態でした。
晶子も平塚らいてうも自分で稼ぎ夫と子供を養うという、頑張り屋の「できる女性」でした。
母性保護論争
平塚らいてうは「良妻賢母」を非難していました。
「元始、女性は質に太陽であつた。」
与謝野晶子は平塚らいてうを応援していましたが、実はこの2人の考えは似ているようで違っていたのです。「似て非なる」です。
「女性の自由解放」を唱えていた平塚らいてうに対し、与謝野晶子は「男女平等」を唱えていました。
与謝野晶子は「女が世の中に生きて行くのに、なぜ母となることばかりを中心要素とせねばならないか。」と大正5年2月の「太陽」で主張しています。
また「横浜貿易新報」大正6年12月16日の記事で「女は掠奪者」と批判しています。
夫が稼いだお金で百貨店で買い物をしているブルジョア階級の妻を批判したのです。
「私は先づ働かう、私は一切の女に裏切る」
男性に依存する女性を強い言葉で非難しました。
平塚らいてうは8歳年上の与謝野晶子に対して挑発的な「母性の主張に就いて与謝野晶子氏に与ふ」と言うタイトルで「文章世界」に「すべての女性に対して母となることを強いているわけではありません。女性本来の能力や性質を考えることから、母性の重要性を力説します。」みたいな内容で反発します。
平塚らいてうは大正8(1919)年に『現代家庭婦人の悩み』を発表し、「家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず」としています。
平塚らいてうは「女性は母性中心に生きるべき」と主張したスウェーデンのエレン・ケイに賛同しています。
「子供というのは、自分の私有物ではなく国家のものです。母の仕事は、よき子供を産み、よく育てるという二重の義務となって居ります。国家は母を保護する責任があります。」
出産も育児も国家が保護すべきであるという主張です。
論争は与謝野晶子と平塚らいてうの2人にとどまらず、山川菊栄や山田わかが参戦して婦人問題を論じていきます。
これが「母性保護論争」です。
女性の自由解放や男女平等という主軸から外れていってるような?
晶子とらいてう、2人の主張
与謝野晶子は、100年後の令和をすでに知っているような「女性も仕事をすべき」というような主張をしています。
また、平塚らいてうは、貧しい家庭でおこなわれている「女性の身売り」や工場で働く低賃金の女性たちをなんとかしたいと、まずは現状打破を主張しています。
どちらも正しい気がいたします。
2人の歩いた道
平塚らいてうはその後市川房江らと婦人参政権運動をおこしていきます。
与謝野晶子も女性の参政権には関心をもっていましたが、この運動に関わることはなく、「文化学院」を創設し女子教育に身を投じるのです。
文化学院は日本初の男女共学学校となります。
晶子が目指した「男女平等」は戦後日本国憲法で実現されることとなりますが、晶子はそれを見ることなく64歳で亡くなります。
平塚らいてうは、昭和37年にいわさきちひろや野上弥生子らと「新日本婦人の会」を結成、夫亡き後も活躍し、昭和46年満85歳で亡くなるまで執筆活動などを続けます。
NHKBS『英雄たちの選択』でも指摘されていましたが、晶子とらいてうの「母性保護論争」は100年後の令和「子持ち様論争」ともどこか似ている部分があります。
子育て中の人や独身の人を敵視するのではなく、改善すべきは企業であり国ではないかと。
ジェンダーギャップランキングで15年1位のアイスランドでさえも、今なお不断の努力を惜しんでいないのです。