NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』、2月16日の主人公蔦谷重三郎のセリフは衝撃でした。
「奴らに流れる金は、女郎が体を痛めて稼ぎ出した金じゃねえですか。それをなんで追い剥ぎみたいな輩にやらないといけねえんですか。」
で、お金は吉原遊郭で働く女性のために使うべきだと主張。
「それが女の股でメシ食ってる腐れ外道の忘八の、たった一つの心意気なんじゃねえですか?」
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の舞台は江戸吉原遊郭です。
『鬼滅の刃』シリーズでは遊郭編が1番好きでした。映画『吉原炎上』では名取裕子さんが主演されました。
目次
遊郭街
吉原遊郭。
それは幕府が公認した遊郭です。
江戸時代には幕府公認の遊郭は、江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町と、全国に3つしかないとされていました。 しかし現実的には半公認の遊郭街は全国いたるところにあったのです。
引手茶屋
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』でも描かれていた「吉原細見」は年に2回春と秋に出版されていた吉原の案内書です。
ガイドブックのようなもので、地図が描かれていますが、それらを見ると仲之町通りを中心に整然とした街並みがあり、たくさんの引手茶屋が存在していたことがわかります。
引手茶屋って何?
引手茶屋は客に花魁たちを紹介する案内所の役割を担っていました。普通のお客さんは茶屋を介してお店に上がっていたのです。客の素性や資金力を見極めた上で、ふさわしい遊女を紹介するのです。遊女のランクや金額も管理されていました。
吉原遊郭と江戸幕府
有名な花魁道中は、気前よく大金を払ってもらう演出でした。
その大金、一晩遊ぶのにおよそ10両、100万円ほどでした。
一晩で千両ものお金が落ちるといわれた吉原。
幕末の頃には、吉原の売り上げの1割は、幕府に納められていました。
吉原は徳川の繁栄に必要不可欠だったのです。
吉原には男性だけでなく、女性もフリーで足を踏み入れることができました。
夜桜やタコ踊りなど、四季折々のイベントも開催されます。
そういった意味を考えると、吉原は江戸市民全体の文化的な特別なエリアだったわけです。
浮世絵、洒落本、黄表紙、蔦谷重三郎が手掛けた文化が吉原から発信していたのですね。
江戸時代中期から後期に活躍した花魁。
孔雀や虎などの刺繍をあしらった衣装をまとうファッションリーダーの花魁は、江戸女性のあこがれの的でもありました。
当時の花魁は高い教養を身に着ける努力をしていました。貧しい境遇でありながら、茶の湯や読み書き、香もたしなみました。
遊女たちの厳しい現実
一般的に遊女になる女性は貧しい家の出です。
先輩の身の回りの世話をする、いわば見習いの
年季奉公としてそれから最大10年間は身を売らなければなりませんでした。おまけに年季が明ける前に亡くなった女性は少なくない。
年季があけてからも、当時は女性の仕事が少なかったために、遊女として別の場所で働く女性も多かった。
幕末になり国全体の経済状況が悪くなると、大金持ちの大名や豪商だけでなく、町人の相手をすることも多く、大金が1度に手に入らないので、それだけたくさんの客をとらなければなりませんでした。
遊郭で働く女性たちの苦労は想像以上でしょう。
時にはその苦しさゆえに放火を起こすことも。
腐った漬物とお茶漬けで何日も過ごし働き続け(遊女小雛の日記より)、遊女が身を売って得られる利益を奪われ、借金の担保にされ、経営が厳しくなってきている店の犠牲になっていきます。
客がお金を払わなければ、遊女自身がそのお金を負担しなければならないのです。
これ、現代のホストクラブの経営に似ている?
1849(嘉永2)年に16人の遊女たちが自分の店である梅本屋に火を放った記録が今も残っています。(『梅本記』)
リーダー格の遊女が無実の罪で拷問されたのがきっかけです。
死者は出なかったものの、江戸時代の放火は大罪。
その裁判を担当したのが、南町奉行の遠山(金四郎)景元。あの遠山の金さんです!
金さんが下した判決は直接放火に関わった4人は「遠島」(島流し)、他の12人は
金さんが江戸の実情を知っていた上での情状酌量で、驚くことに被害者である遊女屋の主人佐吉にも遠島という罪を与えています。
かっこいい!さすが遠山の金さんや!
『べらぼう』で舞台になっている吉原遊郭に興味が出て、2021年に放送された『歴史探偵』を再度見直して、まとめてみました。