暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。収益はすべて寄付しています。

八丈島に流された武士

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東京から南におよそ290㎞。

そこに八丈島があります。

最近はアニメの影響などで観光に人気だそうですね。

画像はphotoACのフリー素材画像より

かつて八丈島は罪を犯した者が流される流刑の島でした。

江戸時代を通じ、八丈島島流しにあった人はおよそ1900人。

 

目次

 

宇喜多秀家

宇喜多秀家八丈島への流人第一号でした。

関ヶ原の合戦で東軍に敗れ、西軍であった秀家は死罪は免れたものの(妻が前田家の出であったおかげ?)、二人の息子と10人ほどの家臣と一緒に八丈島に流されたのです。

www.betty0918.biz

 

八丈島には秀家のおかげで、流人文化といえる高等な文化が伝わっています。

なにしろ元中納言ですからね。

 

途中、前田家の計らいで島から出るチャンスもあったのです。

雪の金沢城

加賀藩2代藩主の前田利常の時代になった頃、八丈島に使者を使わし、「10万石あげるよ、本土に戻ってきてもいいよ。」と秀家に伝えるのですが、秀家はそれを断りました。

拾万意志可被下之旨被仰下忝次第也 しかし能おもうて見よ 一向牢人にて帰参いたし 楽仁とあらば可難有 然ば是にて くちはてたる方がまし也

現代語訳:十万石という申し出ありがたい。でも考えてもみてよ。一介の浪人なら帰参の提案もありがたいけど、私の立場はそうではない。この島で朽ち果てた方がマシでしょ。

『微妙公御夜話異本』より

秀家の妻豪姫(前田利家の実子)は、生涯を実家の金沢で過ごします。

そして、戦国武将の中では1番の長生きをした秀家は、八丈島で84年の人生を終えます。

宇喜多家が赦免されるのは明治2(1869)年。秀家が八丈島に流されてから260年以上が経っていました。その間宇喜多家の者が島を出ることはありませんでした。

 

近藤富蔵

最後に許された流人は江戸の旗本近藤富蔵(1805~1887)でした。

富蔵の父は蝦夷地の千島列島を踏査した探検家近藤重蔵です。

 

文政9(1826)年5月、近藤家は隣人の農家と揉め事になります。

富蔵はその隣人一家を殺傷してしまいます。

その罪で、文政10(1827)年、重蔵は八丈島へ流されます。23歳。

 

流人生活の間に、『八丈実記』を著す傍ら、島民に寺子屋での読み書きの指導を行いました。

また島の有力者の娘と結婚し、1男2女の子をなしています。

 

明治元(1868)年、明治新政府は流刑などの追放刑の執行を停止しましたが、それに伴う恩赦を受けることができませんでした。

明治11(1878)年に八丈島に赴任した東京府の役人が『八丈実記』の著作性の高さを認め、明治13(1880)年2月27日にようやく明治政府より赦免を受け、近藤富蔵は53年間の流人生活を終えるのです。

53年ぶりのことです。

145年前の今日です。

 

富蔵は懐かしい江戸(東京)や大阪などを廻ります。

しかし、世の中はすっかり変わってしまい、富蔵は「浦島太郎状態」でした。

結局2年後、富蔵は自らの意志で八丈島に戻ります。

富蔵は83歳で亡くなるまで八丈島で過ごすのです。

人を殺めた自分の罪の大きさを反省した富蔵は、生涯虫1匹の殺生すら犯すことはありませんでした。

 

 

 

まとめ

宇喜多秀家、近藤富蔵、2人の共通点は本土に戻れるチャンスがありながら、それをせず自らの意志で生涯を八丈島で過ごしたこと。
島の文化向上に貢献したこと。
そして2人ともかなり長生きしたこと。
 
ただ、元々の罪は近藤富蔵は罪のない人への殺生です。戦国時代に避けられない戦で、それに敗れたという理由で流刑となった宇喜多秀家とは違います。
 
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以前に放送したNHKBS『英雄たちの選択』をまとめてみました。

マイナーな歴史記事を最後までお読みくださりありがとうございました。

 

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