東京から南におよそ290㎞。
そこに八丈島があります。
最近はアニメの影響などで観光に人気だそうですね。
かつて八丈島は罪を犯した者が流される流刑の島でした。
江戸時代を通じ、八丈島の島流しにあった人はおよそ1900人。
目次
宇喜多秀家
関ヶ原の合戦で東軍に敗れ、西軍であった秀家は死罪は免れたものの(妻が前田家の出であったおかげ?)、二人の息子と10人ほどの家臣と一緒に八丈島に流されたのです。
八丈島には秀家のおかげで、流人文化といえる高等な文化が伝わっています。
なにしろ元中納言ですからね。
途中、前田家の計らいで島から出るチャンスもあったのです。
加賀藩2代藩主の前田利常の時代になった頃、八丈島に使者を使わし、「10万石あげるよ、本土に戻ってきてもいいよ。」と秀家に伝えるのですが、秀家はそれを断りました。
拾万意志可被下之旨被仰下忝次第也 しかし能おもうて見よ 一向牢人にて帰参いたし 楽仁とあらば可難有 然ば是にて くちはてたる方がまし也
現代語訳:十万石という申し出ありがたい。でも考えてもみてよ。一介の浪人なら帰参の提案もありがたいけど、私の立場はそうではない。この島で朽ち果てた方がマシでしょ。
『微妙公御夜話異本』より
秀家の妻豪姫(前田利家の実子)は、生涯を実家の金沢で過ごします。
そして、戦国武将の中では1番の長生きをした秀家は、八丈島で84年の人生を終えます。
宇喜多家が赦免されるのは明治2(1869)年。秀家が八丈島に流されてから260年以上が経っていました。その間宇喜多家の者が島を出ることはありませんでした。
近藤富蔵
最後に許された流人は江戸の旗本近藤富蔵(1805~1887)でした。
文政9(1826)年5月、近藤家は隣人の農家と揉め事になります。
富蔵はその隣人一家を殺傷してしまいます。
その罪で、文政10(1827)年、重蔵は八丈島へ流されます。23歳。
流人生活の間に、『八丈実記』を著す傍ら、島民に寺子屋での読み書きの指導を行いました。
また島の有力者の娘と結婚し、1男2女の子をなしています。
明治元(1868)年、明治新政府は流刑などの追放刑の執行を停止しましたが、それに伴う恩赦を受けることができませんでした。
明治11(1878)年に八丈島に赴任した東京府の役人が『八丈実記』の著作性の高さを認め、明治13(1880)年2月27日にようやく明治政府より赦免を受け、近藤富蔵は53年間の流人生活を終えるのです。
53年ぶりのことです。
145年前の今日です。
富蔵は懐かしい江戸(東京)や大阪などを廻ります。
しかし、世の中はすっかり変わってしまい、富蔵は「浦島太郎状態」でした。
結局2年後、富蔵は自らの意志で八丈島に戻ります。
富蔵は83歳で亡くなるまで八丈島で過ごすのです。
人を殺めた自分の罪の大きさを反省した富蔵は、生涯虫1匹の殺生すら犯すことはありませんでした。