龍馬像は有名ですがその龍馬より先に銅像となったのが、明治時代も活躍していた板垣退助です。
龍馬と同じ時代を生き、その後も83歳まで長生きして日本を変えた人物です。
明治時代、板垣退助は国民のための政治をめざし、自由民権運動を率いたのです。古い政治体制に戦いを挑みました。
目次
板垣退助と坂本龍馬
私は板垣退助に良い印象をもっていませんでした。
なぜなら、今から数十年前に武田鉄矢さん原作の『お~い!竜馬』を読んだから。
『お~い!竜馬』では上士である退助は、郷士(下士)である龍馬を徹底的にいじめていたのです。
しかし、龍馬と退助が土佐で面識があったという史料は今のところみつかっていません。
板垣退助は、坂本龍馬が暗殺されたときに「龍馬は細かいことにこだわらないおおらかな人だから、役人には向いていない。もし龍馬が40歳まで生きていたなら、薩摩の五代(五代友厚、大阪の経済の基盤を作った)や土佐の岩崎(岩崎弥太郎、三菱財閥の初代総裁)のようになっていただろう」という言葉を残しています。
板垣は龍馬を高く評価していたのです。
龍馬もまた板垣を頼みの綱としていたという手紙が残っています。
新しい国をつくるという認識で2人の大きな目標は共通していたのではないか。
土佐藩に「上士・郷士」という武士同士の間の身分制度が存在していたのは事実ですが、板垣退助が龍馬をいじめていたというのは、漫画の創作であると考えられます。
私は漫画の内容が事実だと信じて、ずっと板垣退助が好きではなかった。誤解でした。板垣さん、ごめんなさい。
天才軍略家、板垣退助
江戸に出た退助は、欧米列強に怯えながらも幕府が批判する人々を弾圧している姿に、日本が激変する動きを察知します。
その頃宿命のライバル(?)坂本龍馬は、板垣とは異なる平和的手段で「大政奉還」を成し遂げるわけですが。龍馬が暗殺されたのは、その後まもなくです。
徳川幕府が終わりを告げた後におこった新政府軍VS幕府軍の戊辰戦争では、板垣退助は
「自由は死せず」
新しい明治の時代を築くのに尽力した板垣退助。
しかし、新政府は薩長による権力の独占でした。いわゆる藩閥政治です。
板垣はその政治体制を厳しく批判、聞く耳をもたない大久保利通らに不満を募らせ新政府を去ります。
倒幕や西南戦争のような「兵による武力」ではなく、「言論」の力で弾圧する政府に立ち向かいます。キーワードは「自由」
国民が政治に参加するための議会の開設を目的とした「自由民権運動」です。
明治15(1882)年4月6日。
板垣は岐阜での演説を終えた後に
143年前の今日です。
相原が使用した短刀は現在でも残っています。
この時に板垣が発したのが有名なあの言葉です。
「板垣死すとも自由は死せず」小学校の社会科で習いました。
この不朽の名台詞は新聞記事をきっかけに全国に広がります。
事件を描いたかわら版や錦絵が国民の心を打ちます。
「自由」という言葉は大流行。自由民権運動が大きく広がります。
明治23(1890)年7月1日。第1回衆議院議員選挙が実施され、遂に国民が選んだ議員によって国会が開かれました。
議会政治は令和の現在も受け継がれています。
私は『お~い!竜馬』を読んでから、40年ほど板垣退助は「いじめっ子」であったと勘違いしていました。
あまりに極端な創作は漫画であってもやめてほしいです(笑)