1970年代。
過激派による企業連続爆破事件がありました。
海外に進出する企業を「標的」にしたのです。
現地で安い賃金で人を雇うことは「悪」であると主張するのが目的でした。
多くの被害者を出した三菱重工爆破事件が起こったのは1974年。
事件直後、「東アジア反日武装戦線」の「狼」に「大地の牙」と「さそり」が加わりました。
そのひとつ「さそり」というグループに桐島聡がいました。
彼は5つの事件に関与した疑いがありました。
犯行グループの中でただひとり逮捕されていませんでした。
目次
桐島悟という人物
1972年、明治学院大学に入学した広島出身の桐島聡。
あさま山荘事件の直後です。
彼は大学時代、「さそり」メンバーに大きく影響を受けることになりました。
彼らは肉体労働に従事します。
「虐げられた人と共にすることが社会変革に繋がる」そう信じたのです。
下層労働者こそ革命の主体であると。
企業連続爆破事件
そして「革命への道」に「爆弾」という手段を選ぶようになります。
標的は「植民地主義企業」でした。
アジアの労働者など弱者から搾取している企業への攻撃を試みます。
三菱重工爆破事件では、桐島は「被害者が出るとは思わなかった」とショックを受けていました。
それでも過激な運動をやめることはしません。
1975年2月28日に東京青山の間組爆破事件が起こります。
東アジア反日武装戦線3グループ合同の犯行でした。爆弾で世論を喚起するが、市民は巻き込まないように死傷者を出さないようにとの歪んだ理想のもとにテロが続けられます。
その2か月後。
桐島は時限爆弾の仕掛けを初めて担当します。
間組の江戸川沿いにある作業所です。
夜間であれば人がいないのを確認した上での犯行でした。
1975年4月28日。50年前の今日です。
しかし、この日は現場に作業員が居合わせており、その作業員が負傷します。
その後、東アジア反日武装戦線のメンバーが次々と逮捕され、彼らの活動は終わります。
”仮面”の逃亡劇
21歳の桐島は全国に指名手配されます。
「俺はとことん逃げる。死ぬまで逃げる。」と桐島は逃亡生活を余儀なくされます。
桐島は逃亡直後から「内田洋」と名乗り、神奈川県藤沢市に潜伏します。
働いていた鉄工所の主人がその人相に「おまえは桐島じゃないのか」と問い詰めたところ、否定するものの翌日には姿をくらまします。
1970年代後半。
「内田洋」を名乗る人物は、藤沢市内の木造アパートに住みながら土木作業員などをして暮らします。
20代から実に40年間も。
その部屋にはギターやたくさんの漫画などの他に、いくつもの殴り書きのメモがありました。
「闇だ。闇が人間を創造する。」
「やっぱりくらやみの中で考えないと、仮面が消えてしまう。」
その逃亡生活の中でできた友人にも「嘘」をつき、ずっと「仮面」をかぶりつづけていた生活でした。
逃亡劇の幕切れ
2024年1月、70歳の内田洋は道端で倒れ、通りかかった人が救急車を呼び、鎌倉市内の病院に運ばれます。
進行性の胃がんで食事もろくにとれない中(がんが食道を圧迫していた)、入院から12日後内田洋は「自分は指名手配犯の桐島聡だ。通報してくれ。」と懇願します。
鎮痛剤でも抑えきれない痛みの中での決断でした。
本名を名乗って4日後に桐島聡は亡くなります。
彼の親族は遺骨の引き取りを今なお拒否し続けているそうです。
以上、NHK『事件の涙』をまとめてみました。
死の間際でなぜ本名を名乗ったのか、「勝利宣言」と報道されたりしていますが、実際は苦しそうで、かといって自分の罪を反省していたのかどうかは、誰にもわかりませんね。