今では死語となった(?)「良妻賢母」という言葉。
その言葉は、誉め言葉というよりも現代では「女性蔑視」ととられることが多いでしょう。
幕末~明治初頭の儒者・洋学者・官僚である中村正直が明治8(1875)年に行った「善良ナル母ヲ造ル説」が源泉されるのではないかと思われます。
目次
中村正直
日本史の教科書でもあまり見かけない人物ではありますが、彼の先行研究は少なくありません。
英学塾。同人社の創立者で東京女子師範学校摂理(校長)、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任しました。
江戸麻布の幕府同心の長男として天保3(1832)年5月26日に生まれました。
193年前の今日です。
中村正直はイギリスに留学して、同国が発展したのは人民の「勤勉忍耐」と「自主の志向」のためであり、そのような徳はキリスト教の信仰から生まれることを認識します。
また、イギリスの母親たちの知識や識見の高いことを目の当たりにしたことから、日本でも女子教育に力を入れる必要性を痛感しました。
中村は、明治7(1874)年に洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になります。六大教育家のうち3名(森有礼、新島襄、中村正直)がクリスチャンです。
中村正直が考える「良妻賢母」
中村は洗礼を受けた翌年に、「良妻賢母」なる言葉を発するわけです。
彼の作った「良妻」像は政治に参与する男性が、内助とする同時に家庭における後顧の憂いがないように求める理想としての面が強調されていました。
また女性が教育を受け、それによって「賢母」の役割を果たすことを期待しました。
その一方で彼は育児に関して男性の役割には触れていません。
彼の「良妻賢母」思想とは、子供と夫のために尽くすことを通じて、究極的に国家のために役割を果たすことを女性に要求するものでした。
堺利彦が考える「良妻賢母主義」
「良妻賢母」は明治時代に生まれた言葉かと思われますが、その明治時代にすでにそれを批判していた人物がいます。
堺利彦です。
今の女子教育の目的は良妻賢母を作るにありという…、これ女子を家押しこむるの主義である。女子をもって男子国の奴婢とするの主義である。
彼らはいわく、社会百般の事業は男子これに当たる。女子はただ家庭にありて夫に仕え子を産み子を育つればよいのである。男子は外に働き、女子は内を守る、これ男女自然の別であると。
ああこれがはたして「自然の別」であるか。はたして男女心身本質上の差異であるか。…予輩は、男女心身の本質に大小、高下、強弱の差異があるとは信じえぬ。されば現時の男女間における著大の差異は、決して人類本来の「自然の別」ではなく、むしろ不自然なる近代的の現象と言わねばならぬ。
ただし男女がその生殖作用において自然固有の別をなせるは、一見明白の事実である…女子は多く生殖作用を営むの任務に当たるがゆえに、男子は多く衣食住を営むの任務に当たることになった。男女の分業はかくのごとくして起こった。
この男女あいだの分業は、将来といえどもなお必ず存すべきはずである。しかしながら人生の事業は決して衣食住と生殖作用ばかりではない。人生がこの二者以上に出でたのがすなわち文明である。されば文明の社会においては、衣食住以上、生殖作用以上、男女とも各々その才能に従って高尚の事業に当たるべきはずである。
しかるに「社会百般の事業は男子これに当たる」と言い、「女子はただ家庭にありて夫に仕え子を産み子を育つればよい」と言うのは、すなわち女子を家庭に押しこめて男子の奴婢とする主義である。良妻賢母主義とはすなわち男子国の奴婢養成法である。
『二六新聞』所載「婦人問題」中より抄録(明治39・2、第四巻第二号)~堺利彦全集第2巻『家庭雑誌』より~
堺利彦の「良妻賢母主義とはすなわち男子国の奴婢養成法である」との結論付けは、かなり攻めた表現です。
これを明治時代に発表していたとは。
堺利彦は後にその過激な発言や行動で何度も投獄されるわけです。