11月16日㈰放送のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、久しぶりに平賀源内先生が登場(?)しました。
なにしろ、サブタイトルが「空飛ぶ源内」ですから。
この先、『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第44回「空飛ぶ源内」のネタバレがほんの少しだけあります。
まだ視聴されていない方はご注意ください。
目次
万国博覧会
私は今年の大阪万博は見に行っていませんが、1970年の大阪万博は見に行きました。
長く並んだことと、住友童話館が楽しかったこと、帰りは疲れ果てて寝ながら歩いていたことしか記憶にありません。
その前身ともいえる博覧会の歴史は江戸時代中期に遡ります。
全国から珍品奇種を集めて、人々に驚きや感動を与えました。
このような催しの開催実現の立役者が平賀源内でした。
平賀源内はエレキテルなどの発明家としての顔が有名ですが、彼の活躍は変幻自在で、ベストセラー作家であり、西洋画も手がける画家であり、学者であり、医者でもあり、さまざまな分野で才能を発揮しました。
高松藩での平賀源内
高松藩の下級武士の跡継ぎで、幼少期から儒学や漢学などの教育を受けました。
しかし源内の興味は自然界の植物や動物であり、世界的に博物学の世紀と呼ばれる18世紀、日本では動植物や鉱物を採集する本草学が盛んになっていました。
源内がいた高松藩の五代藩主松平頼恭は「博物大名」の異名をとるほどに藩をあげて本草学に力を入れていました。
そんな頼恭に本草学者として仕えていたのが平賀源内でした。
若き日の源内は
高松藩五代藩主、松平頼恭は「衆鱗図」と呼ばれる図鑑を作りました。鯛やクラゲ、エビといった海の生き物723点を収めた超絶技巧で描かれた魚による日本最古の本格的な魚類図鑑です。衆鱗図に似た図鑑が日本各地にあり、平賀源内も関わっていたといわれます。
引用:2019年放送NHKBS「讃岐の秘宝”衆鱗図”の謎に迫る」
長崎と高松と江戸
源内は25歳の時に長崎に1年間遊学します。
当時の長崎は鎖国の中にあって唯一海外に開かれた貿易港です。
オランダや中国からの輸入品に源内は刺激を受けました。
もっと見聞を広げたいと考えた源内は、宝暦4(1754)年藩の俸禄を返上し浪人になり、江戸へと向かいます。
「湯上りや世界の夏の先走り」道中の温泉で源内がよんだ句です。

江戸では
しかし、そんな源内を高松へ破格の条件で呼び戻したのが松平頼恭でした。
高松で多忙極める源内は自らの研究が進まず、悩むところとなり、藩に辞職を願うと「
源内は浪人になってしまいました。
江戸での活躍
江戸にもどった源内は「薬品会」などの物産会をたびたび開催し、この頃に幕府老中田沼意次に知られるようになったと思われます。
蝦夷から取り寄せたトリカブト、琉球のジャスミン、南蛮産のヤモリなど1300もの物品を全国あちこちから集めた「東都薬品会」において知名度もあがります。
その薬品会の結果を「
源内は、日本の優れた本草学者のひとりとなったのです。
金儲けと転落
図鑑を作るにあたって金に困った源内は『
源内は埼玉県秩父市で鉱山開発まで始めますが、それに失敗し、借金を抱え込み、それから精神を病んでいくのです。
最期
安永8(1779)年夏には、源内は橋本町の邸に移ります。
斎藤月岑の『平賀実記』によると、11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿していましたが、明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀、両人に手傷を負わせ、久五郎は傷がもとで死去したとされています。
一方、木村黙老の『聞まゝの記』によると、大名屋敷の修理を請け負った際に酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして町人を殺傷したとされています。
翌11月21日に投獄されました。
246年前の今日ですね。
その後12月18日に破傷風で獄死しました。享年52。
杉田玄白
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第44回では、杉田玄白が登場しました。
杉田玄白と平賀源内は親しく(小学生の頃見ていたドラマ『天下御免』を思い出します)、杉田玄白は、総泉寺の墓(総泉寺はその後移転しますが墓はそのまま橋場の旧地にあります)とは別に武蔵国金沢(後の神奈川県横浜市金沢区)の能見堂に碑を建てる構想を持っていましたが、実現したかどうかは不明です。(城福勇『平賀源内の研究』)

和三盆
源内の故郷香川県では製糖所で、源内が作った『
『
砂糖作りに平賀源内が関わっていたとは知る人はそう多くはないかもしれません。
しかし砂糖作りに携わっている人たちには当然の常識だそうです。
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公蔦谷重三郎が作った吉原のガイドブック『一目千本』は遊女たちを花にたとえて紹介していましたね。
本草学者の平賀源内との接点を垣間見た気がします。
もしかしたら、源内が『一目千本』作成にあたってアドバイスしたかも?

