NHK朝ドラ『ばけばけ』の主人公夫妻のモデルである小泉八雲夫妻は、国際結婚の先駆者です。
2023年のドキュメンタリー映画『War Bride 91歳の戦争花嫁』をAmazon Primeで視聴しました。
監督はTBSの川嶋龍太郎氏。『JIN-仁-』や『半沢直樹』を手掛けていらっしゃいます。
目次
戦争花嫁
「TBSドキュメンタリー映画祭2023」での上映作品のひとつで、太平洋戦争の終戦から5年後(1951年)に、川嶋監督の伯母が敵国アメリカの軍人と結婚し20歳で渡米し、旦那様が亡くなった今もオハイオで暮らし続けているという実話を基に制作された映画です。
「戦争花嫁(せんそうはなよめ、英語: War Bride)」とは、第二次世界大戦後、日本を含む駐留地で連合国軍兵士(主にアメリカ兵)と結婚し、その兵士の母国へ移住した女性たちのことです。
日本からアメリカに渡った戦争花嫁は4万人を超えます。

戦後、海を渡った日本人女性
1930年横浜市生まれの桂子さんは、太平洋戦争の終戦後座間の米軍キャンプで英語ができる人を募集していると知り、そこで働くようになり、米軍人のフランク・L・ハーンと知り合います。
日立を脱サラし事業を起こしアメリカに憧れたモダンな父が、桂子さんにインターナショナルな教育を受けさせたいと考えから、横浜紅蘭女学校(現横浜雙葉中学校高等学校)を卒業した桂子さんは英語の日常会話には不自由しなかったのでしょう。
1951年、20歳の時に桂子さんはハーンさんと結婚し、アメリカに渡り、人口36,000人のうちアジア人が200人も満たないライマ市で暮らすのです。
アメリカ人と結婚しアメリカで暮らすことを、ご両親は反対せず受け入れてくれました。
桂子さんが通っていらしたカトリックの紅蘭女学校が「すべての人を愛す」「かけがえのない他者の存在を大切にする」という教えであったことも影響します。
しかし、周りからは心ない言葉を受けます。
「桂子さんは敵国に身を売った娼婦である」と。
その時には初めて桂子さんは自分が戦争花嫁であると認識します。
RAA=特殊慰安施設協会
嘉悦大学元教授の安冨成良さんが当時の状況を説明しています。
「日本の当時の内閣は、日本の良家の子女がアメリカ軍人からの暴力に遭わないためにRAAを作ったのです。」とのこと。
貧しさの中から多くの女性がRAA(=特殊慰安施設協会)で働きます。
そんな女性の中には戦争花嫁になった人も少なくありません。
ジャーナリストのルーシー・クラフトさんは、ご自身のお母様も戦争花嫁だったそうですが、「当時の調査では、国際結婚というより違う人種の相手との結婚はアメリカ人の9割が反対していた」としながらも、「アメリカでの差別より、日本での差別の方が厳しかったのでは」と言います。
特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい・RAA)は、第二次世界大戦後、東京を中心に、連合国軍占領下の日本政府の援助により作られた「慰安所」を中心とした占領軍用の慰安施設である。1945年8月23日、東京都下接客業者七団体によって設立された。
1950年代の日本
1950年代は1ドル360円の固定相場でした。
日本は戦後復興し、着実に平和への道を歩みます。
1951年は日本を占領していたマッカ―サが解任され、吉田茂はサンフランシスコ平和条約の単独講和に踏み切り、1952年に調印します。
高市早苗首相が昨年11月の党首討論でサンフランシスコ平和条約を引用して、微妙な空気を作りましたね💦
90代になっても
アメリカの義両親は桂子さんのことをとても愛してくれましたが、やはり周りからは人種差別を受けました。
また息子さんを亡くし、その後ご主人も亡くし、悲しい出来事もありました。
しかし、日本を離れて70年以上経っても流暢な美しい日本語を話し、90歳を超えても自分で車を運転し大きな家でひとり暮らしをしている桂子さん。
生け花やお習字など日本の文化を広めようとボランティア活動を行っているそうです。
ライマ市の姉妹都市である兵庫県播磨町との関係構築のための代表団のメンバーであったこともあるそうです。
そして桂子さんの孫であるヘザーさんは桂子さんに教わった生け花が得意で、「高校時代、私は日系だということでそれは私のアイデンティティの一部だけど、みんなとは違うと思われていた。 生徒の95%が白人の学校だったから違いは際立ったし私もより強く意識するようになった。だから幼い頃から、日系であることは私自身の一部だとずっと感じていたわ。」と、日本の血を誇りであるという発言に、時代の変化を感じました。
ヘザーさんの黒い瞳も黒い髪も美しいです。
1931年生まれといえば、私の亡くなった父と同じ年齢です。
私の父は、高度成長期時代もバブル景気の頃も馬車馬のように働き、定年後も働き、リタイア後10年ちょっとで亡くなってしまったけど。

