徳富蘇峰記念館に
「大隈重信遭難事件」のお見舞いに蘇峰が大隈家を訪ねたものの会えず、大隈の側近で会った矢野龍渓から蘇峰へ面会が叶わなかったお詫びの手紙が送られたのです。
拝啓 御無音仕候 態々御来訪被下候處 欠禮到候 隈伯も近日快方に有之候 本日ハ十時頃体温三十七度一二分ナリ 脈搏は七十六七に有之 少々気懸も出来申 創口ハ最早や痛み去り申候 右之次第故 今三週間計りを経ハ床上にて人に接スル位ヒにハ相成り可申候 此ノ変事にハ大に痛心到候 生の如きハ政治上ノ事ヨリ寧シロ友誼上、其ノ病体に心ヲ奪ハレ、両三日ハ百事手にツカヌ有様に有之候 昨今稍ク事務ヲ纏メに取懸り申候 右ノ次第にて出入時無ク不在勝チ御座候 以上

で、この手紙について調べようと思い、AIさんに質問したところ、トンデモナイ回答がきました。
AIさんの回答は以下のとおりです。
この書簡は、右脚を切断する重傷を負った「隈伯(大隈重信伯爵)」の経過を報告し、大木自身の動揺と多忙を伝える貴重な史料です。
は?大木喬任って誰?
肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知孝の長男として天保3(1832)年3月23日に生まれました。194年前の今日です。
明治元年に新政府が樹立されると大隈重信らと一緒に出仕し、東京府知事などを務め、江戸を東京にすることに尽力しました。
また、教育制度にも尽力したことから、明治六大教育家(大木喬任、森有礼、近藤真琴、中村正直、新島襄、福沢諭吉)のひとりとされています。
しかし。
AIさん、間違ってるよ。
この手紙は矢野龍渓から徳富蘇峰に宛てた手紙であって、大木喬任が描いた手紙じゃないよ。
もちろん受取人は徳富蘇峰で、伊東巳代治じゃないよ。
徳富蘇峰記念館に保存されているんだから。

AIさんの回答は「絶対」ではなく(間違ってるかもよ…みたいな記載あるもんね)ついでにWikipediaの記載も「絶対」ではありません。
大隈重信は佐賀銘菓の丸ぼうろが大好きだったそうです←これもAIさん情報(笑)

