暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。収益はすべて寄付しています。

石田三成の忠義と才能

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』

そのタイトルどおり、豊臣秀吉と秀長兄弟の物語です。

主人公は弟の秀長です。

徳川家康には本多正信、上杉景勝には家老の直江兼続といったナンバー2がいたように、天下人・豊臣秀吉にも右腕と呼ぶべき存在がいました。

それが、弟の豊臣秀長だったのです。

 

豊臣秀吉

秀長は52歳の若さで病で亡くなるんだけど。その後の秀吉を支えたNO.2は誰?

 

石田三成はご存じ豊臣秀吉に仕えた武将で、豊臣政権の五奉行のひとりです。

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では松本怜生さんが演じられます。5月10日放送の第18回から登場しています。

正徳6(1716)年に書かれた『武将感状記』に出てくる「三献の茶」は採用されませんでした。えぇ、たぶん創作ですから。

 

 
■三献茶■
石田三成の「三献茶」は、豊臣秀吉が長浜城主時代、喉を潤した寺の小姓(後の三成)が、1.ぬるいお茶を大碗に、2.少し熱いお茶を中碗に、3.熱いお茶を小碗に、と温度と量を変えて3度差し出し、秀吉に配慮と知性を認められたという物語です。

 

 

 

私は石田三成が好きで、過去に何度もブログに彼について考察しています。

www.betty0918.biz

www.betty0918.biz

 

目次

 

『黄金の日日』

私が三成を好きになったのは高校生の頃に見た大河ドラマ『黄金の日日』で近藤正臣さんが演じられた三成がとても素敵だったからです。

『黄金の日日』は堺をメイン舞台にした商人の物語です。

www.betty0918.biz

 

天正13(1585)年に秀吉が関白になると、三成は20代半ばにして従五位下治部少輔に叙任し、天正14(1586)年6月14日には三成は和泉国の堺奉行(現・大阪府堺市)にも任じられました。

440年前の今日です。

当時の堺は、中国、フィリピン、タイ、ポルトガル、スペインなどとの南蛮貿易によって栄え、戦乱の影響を受けにくい自治都市として学問や文化も隆盛を極めていました。

今井宗久や津田宗及らによって茶の湯も盛んに行われており、国内でも有数の重要都市でした。(今井宗久と津田宗及は『豊臣兄弟!』にも『黄金の日日』にも登場しています)

そんな堺を舞台にした『黄金の日日』は、呂宋助左衛門が主人公であり、三成は堺奉行として任務を遂行しながら、助左衛門と深く関わり友情を育んでいくような物語となっていました。

 

 

石田三成は悪役?

かつて(特に江戸時代から昭和中期頃まで)は、勝者である徳川家康を引き立てるための「狡猾な官僚」「豊臣家を乱した奸臣」といったネガティブな描かれ方が主流でした。

私の大河ドラマでの記憶では、『独眼竜政宗』や『軍師官兵衛』がひどかったです😞

なので、どちらの大河ドラマも私の好みではありません。

 

三成は事務能力に優れていた

石田三成は、現在多くの歴史アンケートでトップ10の常連になるほどの人気を誇っています。

現代社会において、三成の「卓越した事務能力」が共感を集めているのです。

 

太閤検地

秀吉の業績の中でも代表される太閤検地。

これを完遂したのが三成です。

単位を統一し(京枡の導入)、公平な課税システムを築いた功績は、現代の行政やマネジメントの視点から高く評価されています。

 

直接の戦いよりも「仕組み作り」が得意だった

三成は物流・兵站のプロでした。

朝鮮出兵や国内遠征における輸送路の確保など、派手な合戦よりも「負けないための仕組み作り」に長けていた点が、ビジネスマン層などにも支持されています。

 

忠義を貫いた家臣

石田三成の人気については、「かつての悪役イメージ」から「信念を貫く悲劇の知将」へと、ここ数十年で変化を遂げていると言えます。

かつては「融通の利かない頑固者」とされた性格が、今では「損得勘定抜きで忠義を貫いた美学」として捉えられています。

勝機が薄いと分かっていながら、恩顧ある豊臣家のために家康に立ち向かった姿は、判官贔屓(ほうがんびいき)の心理も相まって「不器用だが真っ直ぐな男」という魅力に変換されました。

近年の大河ドラマ(『真田丸』『どうする家康』など)では、人間味あふれる三成像や、正義感ゆえに孤立する苦悩が丁寧に描かれるようになりました。

 

石田三成を小説にした作家

三成が不人気だった時代であっても、石田三成を主人公にした小説は少なくありません。

古いものでは、『人生劇場』で有名な尾崎士郎が小説『石田三成』を1938年に執筆しています。

今のような石田三成に関する実証史学が進んでいなかった時代、奸臣的に描かれることが多かったであろう時代に、尾﨑士郎はどのような三成を描いたのでしょうか。

 

大田区立尾﨑士郎記念館~AIで加工しています~

尾﨑士郎、愛知県で生まれ、神奈川県横須賀市の小学校を卒業した彼は、愛知県で中学校生活を送り、山川均と知り合い彼が所有していた『共産党宣言』、ピョートル・クロポトキンの『パンの略取』(翻訳:幸徳秋水)、「平民新聞」の綴込み、堺利彦が創刊した月刊誌「へちまの花」などを読み、思想的影響を大きく受けます。

その影響でしょうか。

大正4(1915)年4月、『学友会雑誌』に「徳川家康公論」を寄稿し、徳川家康を批判します

彼が小説『石田三成』を手掛けたのはそんな経歴が影響したのかもしれませんね。

 

以前は尾﨑士郎のように徳川家康を嫌う人は多かったかもしれませんけど。家康は、今川家や武田家などの敵対勢力を次々に駆逐していくなかで、今川家や武田家の旧臣たちを、自分たちの家臣団に組み込んで、組織を強化しました。息子・秀忠への世代交代も2元政治を敷きながら慎重に行ったことを思えば、「人材を活かして組織力を強化したホワイト企業」といえますよ。トップリーダーは健康であるべし、と体調管理を徹底した点でも、家康から現代の経営者が学ぶ点は多いと思います。

 

尾﨑士郎は、早稲田大学に入学したものの中退し、その後札幌から上京した宇野千代と劇的な出会いを経て結婚し、1923年3月には大田区馬込へ移住しました。

その後千代とは離婚しますが、そう、宇野千代は次期朝ドラ『ブラッサム』の主人公ですね。

恋多き宇野千代、そんな彼女の人生を朝ドラではどのように描くのでしょうか。

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな暮らしへ
にほんブログ村

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の石田三成から、次期朝ドラ『ブラッサム』の宇野千代まで、こじつけのように繋げた今日のブログ記事でした。

 

石田三成も徳川家康も、以前とは違うビジネスマンの目線で考察すると、すぐれた武将という評価が多くなっていますね。