今なお出口が見えないコロナの終息。
出口どころか変異ウイルスまで出てきて、ますます迷路に迷い込んでいる。
明治時代水際対策に関わった医師であり官僚であった後藤新平についてNHKBSプレミアム『英雄たちの選択』でとりあげていました。
目次
後藤新平とは
以前長与専斎について語らせていただきました。
その長与専斎のバトンを受け取ったのが後藤新平です。
後藤は福島の医学校を出た後に医師として働いていました。
その後藤は長与に見い出され、明治16年内務省衛生局に入り、長与の懐刀として働くようになったのです。
日清戦争
明治28(1895)年。日清戦争で日本は勝利します。
戦場では衛生環境が悪く、多くの兵士たちが感染症に倒れていました。
大陸から日本兵が大量に帰還すれば、感染症が国内に広がる恐れがあります。
政府は水際対策として、検疫事業を計画します。
その指揮をとったのが後藤新平でした。
帰還する兵士を待たせる期間が長いと感染が広がってしまうかもしれない。
検疫所の指揮をとる
後藤新平はものすごいスピードで検疫所の設備を整えます。
このあたりワクチン接種も思うように進まない現代の政府と比べてしまいます。
瀬戸内海にのぞむ彦島・似島・桜島の3か所で検疫をおこなうことになりました。
4月17日。
清との間に日清講和条約が調印され、兵士たちの帰還が早まります。
予定を繰り上げ6月1日に検疫を始められるように、突貫工事で準備を進めます。
感染症の帰還兵たち
しかし。
その完璧と思えた検疫所でも追いつかないほどの現実が待ち受けていました。
検疫兵が帰還した船に乗り込み、検疫を行います。
6月29日に帰還した白山丸。乗っていた兵士のうち、そこには72人のコレラ患者がいました。
検疫所のスタッフにも感染していきます。
後藤新平は43日間寝床に入らず、検疫の指揮に没頭したそうです。そして検疫所のスタッフには十分な給与と待遇を与えるよう、上司にお願いします。
4か月で23万人を超える帰還兵を検疫。
コレラ、赤痢、腸チフス、天然痘、あわせて996人の患者を隔離しました。
もしも検疫なしに、帰還兵が国内に入っていたら日本国内に複数の感染症が同時に広がって、大変なパンデミックになっていたかもしれません。
海港検疫法
こうして世界が驚くほどの対策で、感染症を水際で食い止めることに成功したのです。
これが衛生国家への大きな1歩でした。
明治32(1899)年。海港検疫法が公布。
幕末以来の不平等条約が一部改正され、海港検疫法に基づき日本が外国船を検疫することが正式に認められました。
官僚としての後藤新平と晩年
この後、後藤新平は日本の南方・大陸進出を支え、鉄道員総裁として国内の鉄道を整備します。
拓殖大学学長を経て、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事します。
晩年は政治の倫理化を唱え、各地を遊説します。
後藤新平は、昭和4(1929)年4月4日、日本性病予防協会総会に向かう途中、滋賀県米原駅付近を走行中の急行列車の中で倒れ、そのまま意識が戻らず、4月13日亡くなります。98年前の今日です。
磯田直史氏は、『感染症の日本史』を執筆する時に後藤新平の歌の掛け軸を掲げていたそうです。
「寝覚めよき事こそなさめ、世の人の、良しと悪しとは言ふに任せて」
緊急時のリーダーは、世評を放置し、仁慈・良心に従って断行する必要があるのです。