天下統一を試みた武将というと誰を思い浮かべますか?
織田信長?
今川義元は1519年生まれ。
1522年(大永2年)2月13日がその生誕の日です。
信長が1534年生まれですから、信長より一回り先に生まれているのですが、その三好長慶が、応仁の乱移行乱れていた世を統一しようとした最初の武将であるという説を先月NHK歴史ヒストリアで放送していました。
目次
三好長慶って知ってる?
地元であるのに、徳島県民でさえ「三好長慶」を意外に知らないのだそう。
なんという知名度の低さ。
父の三好元長は室町幕府官僚の細川晴元の重臣でしたが、三好家は四国の徳島県を所領していたのです。
父元長は、主人細川晴元によって死に至りますが、その父の仇である晴元に長慶は仕え、どんどんと勢力を大きくしていきます。
長慶の弟たち
三好家の勢力拡大には長慶の弟たちの協力あってこそでした。
長男長慶の命により、弟たちは四国、淡路を治めるようになります。
二男実休は阿波で三好家の四国方面の政治・軍事を担当します。
三男冬康(安宅冬康)は、淡路の安宅治興の養子になり、淡路水軍を統率。
四男の一存(十河一存)は、讃岐十河城主の十河景滋の養子になり、そごう家の家督を継ぎました。
五男冬長(野口冬長)は淡路国・志知を本拠地とする野口氏の養子に入って家督を継承、淡路を拠点に播磨国から讃岐国の東にかけて、本州と四国の間を取り持ち交流する役割を担いました。
弟たちを養子に出すことにより、大阪湾を囲む四国、近畿をぐるりと三好家が治めることになったのです。
事実上の天下統一
弟たちだけでなく、他の武将も長慶に味方する者が多くなり、長慶は単なる武将ではなくなっていきます。
横暴であった主君細川晴元はもともと父の仇、1549年(天文18年)春元だけでなく将軍親子(足利義晴、義輝)も京都から追い出すことに成功。
その後再び足利義輝と争い、また六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨します。
河内(現大阪府南部)や大和(現奈良県)も制圧し、面積的な意味でも長慶は北条氏康にならぶ戦国大名となったのです。
寺社や公家とその所領を保護しながら戦い、朝廷にも接近し、献金や土塀修理などを行い、事実上三好家が政権を握りました。
三好家の悲しい結末
でもここまでの戦国武将でありながら、私たちが習う歴史にはほとんで出てこない三好長慶。
それというのも三好長慶の死後、長慶に続く後継者が育たなかったのです。
まず唯一の息子義興を若くして亡くします。
ここから悲劇が始まります。
義興に変わる後継者に、長慶は十河一存の息子である義継を指名します。
弟である一存はすでに死亡していましたが、義継の母親が九条家という名門の出身であったことがその理由です。
長慶の他の弟たちもすでに亡くなっていましたが、この時安宅冬康だけは存命でした。
ただひとり生き残っていた長慶の身内として、冬康は長慶をよく補佐していました。
安宅冬康は穏健かつ心優しい性格で、戦を繰り返し傲慢になっていた兄長慶に対し、鈴虫を贈り「夏虫でも飼えば、冬まで生きる。ましてや人間はなおさらである。」と無用な殺生を諫めたという逸話が残っています。
冬康は和歌に優れ、兄の三好実休と和歌のやりとりをしたという逸話もあります。実休が恩人を殺したことを悔やんだ時は和歌で慰めたといわれています。
そんな安宅冬康を兄の三好長慶は殺してしまいます。
NHK歴史ヒストリアは、長慶が義継を養子にした後、後継者争いを避けるために弟の冬康を泣く泣く殺害したと検証していました。
これは、我が子可愛さに甥の秀次を殺した豊臣秀吉の行動と似ています。
ただこの長慶の冬康殺害に関しては、家臣の松永久秀の入れ知恵があったとか、実は長慶がうつ病で正常な判断ができなかったとか、説はいろいろあります。
松永久秀の入れ知恵に関しては、後世の創作であるという意見も色濃いです。
どちらにしろ長慶は無実の冬康を殺害したことをたいそう悔やみ、冬康殺害数か月後に病で亡くなってしまいます。
1564年(永禄7年)の7月4日のことでした。このブログ7月4日にあげたかった~😅
さて、その後三好家は1573年(天正元年)織田信長に攻められ、三好義継は妻子と共に自害して果てます。
また安宅家も1581年(天正9年)羽柴(豊臣)秀吉の淡路討伐の際、あっけなく打ち滅ぼされてしまいます。
まさに戦国の世、『信長公記』などの史料が残っている影響で、明治以降織田信長は日本人に莫大な人気を誇りますが、三好長慶の名はいつの日か人々の心から消えていったのでしょうか。
来年NHK大河ドラマの「麒麟がくる」では織田信長には染谷将太さんが演じられますね。
若すぎる気がしないでもないけど、好きな俳優さんだから楽しみだ~✨
さ、「いだてん」観るか。