足利義輝の最期、三淵藤英の最期、それぞれ心に残る場面だった。
そして松永久秀の最期も強烈に私の心に刻み込まれた。
爆死ではなかった。
目次
『麒麟がくる』第40回「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)」あらすじ
妻煕子を亡くして失意の中、光秀は松永久秀に会い、彼が信長と敵対することを知る。光秀の説得も叶わず、久秀は信長陣に敗れ自害する。久秀が残した名器平蜘蛛が光秀の手に渡ったことにより、信長との関係に亀裂が入ることを予感させた。
光秀は、レビー小体型認知症だったのか?
ちょうど1年前のNHKの番組『偉人たちの健康診断』で、大胆な仮説の分析をやっていました。
明智光秀が「レビー小体型認知症」だったのではないか・・・という仮説です。
先週の放送で、光秀は激務のあまり身体を壊しました。
本能寺の変の6年前になります。
吉田兼見の日記にも書かれています。
「(光秀)五月二十三日 石山陣中にて発病」
有名な『言継卿記』には、光秀が「風痢」であったと記されています。
煕子の献身的な介護により光秀は回復するも、今度は煕子が亡くなってしまいます。もしかしたら光秀の感染症がうつったのかもしれません。
そんな失意の中、光秀は激務に復帰します。
しかし光秀が患った風痢、ウィルスなどによる腸疾患がレビー小体型認知症を引き起こすことがあり、光秀はまさに4か月もの闘病により、長期間腸にとどまったウイルスにより、レビー小体が形成された可能性があるというのです。
腸でできたレビー小体が脳へと侵食し、光秀を本能寺の変へと向かわせたのではないか…というなんとも大胆な仮説を番組でやっていました。
番組に出演されていた東京大学の本郷和人先生は「当時1番の名医といわれた曲直瀬道三が診ているんですが、やはり治せなかった。」とおっしゃっています。
あ、曲直瀬道三。
また名前が出てきましたね。
この人が、『麒麟がくる』の東庵先生のモデルではないかと、私は勝手に思っています。
明智光秀は、レビー小体型認知症を患ったために、冷静な判断ができずに、織田信長を死に追いやってしまったのか?
そうではないと私は信じたい。
光秀には、光秀の考えがあってのことで、正しい「麒麟」を呼ぶために、謀反を起こさざるをえなかったのだと思いたい。
『麒麟がくる』残すところあと4回、楽しみです。
松永久秀と織田信長の関係
三大梟雄の1人して有名な松永久秀。そんな松永久秀が最期を迎えました。
彼の70年の人生、実に波乱万丈でした。
いったい松永久秀と織田信長の関係というのは、くっついたり離れたりどんな道のりだったのでしょうか。
多聞山城
久秀が信長に降伏したのは、三好長慶の亡き後、三好家を再興するため。
しかし信長は、大和の国をライバル筒井順慶に渡した。
ドラマで信長は「(久秀には)いずれ畿内のしかるべき国をあげようと思ってたのにぃ。」と後から言ってましたが。
そんなこと亡くなってから言われたって困ります。
「フランダースの犬」じゃあるまいし、亡くなってから「ネロには絵の才能があった。」と言われたって。
おまけに久秀が築城した多聞山城をあっさり破却した。
それは久秀が信長から離れる大きな原因になったと思います。
名器のこだわり
信長は松永久秀が所有する名器「
思うに、松永久秀が信長に仕える時にも名器が絡んでいました。
名器「
茶道具の名器「
久秀は、その「
で、今回信長に敵対するにあたり、
「見ろ!この釜を!これはわしじゃ!」
佐久間信盛が光秀に「茶道具を全部、とくに
松永久秀が悪人として言い伝えられる理由
久秀は自害に際して「
ついでにいうと信長が、久秀の3つの悪事を徳川家康に紹介したというのも逸話であり、事実ではありません。
松永久秀は生涯ずっと三好長慶を尊敬し、長慶の死後もとにかく三好家再興を胸に行動していました。
三好長慶が目指した武家による武家のための武家の政治…というのが、信長の目指す政治と違っていたことで、信長とすれ違っていったのではないかと天野忠幸先生は述べています。
久秀のような成り上がりものは、江戸時代は幕府にとって裏切り癖のある悪人にして語り継いだ方が都合が良かったのでしょう。
でも松永久秀が信長に仕えたのも、信長から離れたのも、すべて三好家再興のため。
最期まで三好家の忠実な家臣であった久秀は、裏切者のレッテルを貼られる人物ではないと思う。
参考文献