史料批判という言葉をご存知でしょうか。
史料批判(しりょうひはん、ドイツ語: Quellenkritik)とは、歴史学を研究する上で史料を用いる際、様々な面からその正当性、妥当性を検討することである。 19世紀ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケの提唱による歴史学研究法を指す。Wikipediaより引用
史料を批判的に読むことで「真実」を見極めることができる場合があるというのです。
史料を鵜呑みにしては、主観を排除して事実を追求することはできないのですね。
信長に関する史実は『
信長の旧臣が記録した著書ですから、信長贔屓に描かれていることを念頭におかなければならないのです。
その前に、第34回「焼討ちの代償」のあらすじからいってみましょうか。
目次
- 『麒麟がくる』第34回「焼討ちの代償」あらすじ
- キリシタン細川ガラシャの伏線
- 『信長公記』から見る比叡山焼討ち
- 松永久秀と明智光秀の階段での立ち話
- 東庵のモデルが曲直瀬道三だったら
- 信長は天皇を大切に思っていた
『麒麟がくる』第34回「焼討ちの代償」あらすじ
信長は比叡山延暦寺の焼討ちの成果に満足していたが、家臣たちの胸中は複雑。将軍足利義昭は信長に怒ってるし、摂津晴門はのらりくらり。筒井順慶は松永久秀と戦う気満々だし。覚如は武田信玄と密談してるし。
キリシタン細川ガラシャの伏線
光秀の二女たまは、町で民衆に石を投げられます。
信長の比叡山焼討ちに怒った民衆たちが、その娘たまに八つ当たりをしたのです。
たまは父光秀に「(自分をかばいきれなかった)伝吾を叱らないでください。」と懇願します。
比叡山焼討ちは元亀2(1971)年。この16年後にたまは洗礼を受けます。洗礼名ガラシャ。ラテン語で「恩寵」「神の恵み」
伝吾をかばう幼いたまは、細川忠興と結婚後使用人をかばい、忠興と喧嘩になります。忠興はその使用人をたまの目の前で斬ってしまうのです。(諸説あり)
幼い頃から優しかったたま。
この後苦難の人生と壮絶な最期が待ち受けています。
『信長公記』から見る比叡山焼討ち
『御湯殿上日記』によると、「(信長による比叡山や焼討ちは)言葉にも言い表せない気の毒なこと」「筆にも尽くせない」とあります。
最近の研究で、比叡山焼討ちは信長の残虐な性格だけでは片づけられない事件だという見方が強くなっています。
信長はすぐに攻め込むのではなく、交渉から始めました。
信長は延暦寺に手紙を出したのです。この旨『麒麟がくる』で染谷信長も言ってましたね。
「私たちに協力するなら(かっての延暦寺の)領地を回復する」「それができないならば中立を保ってほしい」「もしもこのまま(浅井朝倉の味方をする)ならば根本中堂などを焼討ちせざるをえない」『信長公記』より
延暦寺から返事はありませんでした。
信長は1年近く待ったのです。
松永久秀と明智光秀の階段での立ち話
「わしにどうしろと言うのだ。」とひそひそ声で光秀と話す松永久秀。筒井順慶との戦をやめさせたい光秀。
ひそひそ声がだんだん大きな声になる。
久秀「わしは大和が好きだ!」
光秀「近江はいかがか。私が信長様から拝領した滋賀は良い所です。お譲りいたします。石高は2万石。」
久秀「滋賀を?わしに?(嬉しくてたまらないw)信長どのが承知されると思うか!?」
光秀「承知させてごらんにいれます。」
この真面目な話をコミカル要素をいれてやりとりする吉田鋼太郎さんと長谷川博己さんの演技力に脱帽。
コミカルにすることで、内容がグッとわかりやすくなりました。
この場面、今日のMVPね!
久秀の大和愛
戦国時代、宗教勢力が力を握っていた奈良。
応仁の乱から数十年。四国から出てきた三好長慶が頭角を現し、その主君を天下人におしあげるために松永久秀が知略をめぐらせたのです。
当時大和には興福寺や東大寺などが強大な力で君臨していました。「難治の国」と呼ばれていたのです。
久秀は多聞山城を作ります。
多聞山城、それは宣教師フロイスが記した『日本史』によると、「すべての城や塔の壁には漆喰が塗ってありかつて見たことがないほど白く輝いていた」「これだけの建造物は世界にもない」ほど豪華な城でした。
強大な寺院さえも圧倒する城に大和の民衆は度肝をぬがされ、大和の新しい支配者は宗教勢力によるものではなく、松永久秀なのだと納得します。
久秀は光秀に「(信長のように)神仏をあそこまで焼き滅ぼすほどの図太さはわしにはない。」って言ってました。
松永久秀は武力ではなく知略で民衆を納得させたのです。
そうやって切り開いた大和。
「わしは大和が好きだ!」
そうだよね。そりゃそうだよね。
松永久秀イメチェン
今まで悪人のイメージだった松永久秀の株が、『麒麟がくる』の脚本と吉田鋼太郎さんの魅力でどんどん上がっていきます。
武田信玄を助けた山本勘助のように、豊臣秀吉を助けた黒田官兵衛のように。
いつか大河ドラマになる日がくるか?
いや、まずは三好長慶を主人公にしてください。
東庵のモデルが曲直瀬道三だったら
駒も東庵も菊丸も伊呂波太夫も架空の人物であると制作側は断言されています。
架空の人物に対して、視聴者からの批判が多いようです。
駒は正真正銘、庶民の目線からの戦国時代ということで、モデルはないでしょう。
菊丸は服部半蔵、伊呂波太夫は出雲阿国、それぞれモデルではありませんが、人物像を作るにあたって参考にしたかもしれませんね。
東庵もモデルはいませんが、
曲直瀬道三とは
曲直瀬道三は、足利義輝、細川晴元、三好長慶などの武将の診療を行った医者です。松永久秀には『黄素妙論』を伝授しています。何より正親町天皇を初めとする皇室での診療もしているのです。
でも同じ時期の京都の医者であるものの、曲直瀬道三は美濃に行って光秀と関わり合った記録がない。
そんな曲直瀬道三を『麒麟がくる』のメインキャストにすると、また「ありえない!」とSNSでは文句たらたらでしょう。
それでも私は、架空人物の東庵を登場させるより、曲直瀬道三を出演させて光秀と関わらせてほしかった。
あまり知られていない曲直瀬道三を物語に出し、「こいつ誰?」と興味をもってくれる視聴者が出てきます。そうやって歴史を深堀りさせていく人がまたブームを起こします。
明智光秀は医者だった?
光秀が医者であったという記録が残っています。
近年熊本の旧家で見つかった『針薬方』という古文書に「明智十兵衛尉、高島田中籠城のときに口伝した」との記録があります。
田中城(現滋賀県高島市)に籠城した時に、明智光秀が医術を口述で伝授したというのです。
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医術に関わる東庵や駒を登場させることによって、医師(であったかもしれない)としての光秀をドラマで東庵や駒を分身にしていたのかなとも思います。
でも視聴者にそれは伝わらなかったね。
信長は天皇を大切に思っていた
織田信長、「帝が褒めてくださった♬」と嬉しそう。
あいかわらず褒めて伸びる奴です。
正親町天皇は東庵との密談で「(信長を)褒めてやった」と不気味な表情。
信長は天皇を大切にしました。
そんな信長の行いが、明治時代圧倒的な人気を誇ったのです。
武田信玄についても言いたいことあったのに!
でも長文になりすぎました。
またいつか!
一言「よかったよ~石橋凌さん!」