NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、和宮親子内親王が徳川家茂との結婚のため江戸城内に入りました。
わずか16歳の和宮、浮かない顔をしていましたが、優しそうな家茂の言葉に少しホッとした様子です。
和宮は仁孝天皇の第八皇女。外国嫌いで有名な孝明天皇は異母兄です。
無謀な開国への批判が幕府に浴びせられたため、幕府は朝廷の権威を利用しようと考えます。
それで天皇の妹和宮と将軍徳川家茂を結婚させ、政権の安定化を図ろうとします。
文久元(1861)年4月19日、和宮は内親王宣下を受けます。
160年前の今日です。
降嫁前に和宮の内親王宣下を行うことは、孝明天皇から幕府へ提示した条件でした。
親王宣下(しんのうせんげ)、または内親王宣下(ないしんのうせんげ)とは、
皇族の子女に親王および内親王の地位を与えることである。Wikipediaより引用
目次
和宮降嫁
文久元(1861)年10月20日、和宮一行は桂御所を出立します。
生まれてから1度も京都を出たことがない和宮。
「住みなれし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」
見知らね江戸での暮らしに和宮はどれだけ不安だったことか。
しかも6歳の時から婚約者がいたのに、それを白紙にされてしまいます。
「結婚断るなら、尼になれ」とまで兄の孝明天皇に言われ、和宮は泣く泣くいやいや嫁ぐことになるのです。
25日の長旅の末、11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入ります。
文久2(1862)年2月11日、和宮と徳川家茂の婚礼が行われました。
朝廷と幕府の期待を背負っての結婚です。
和宮が征夷大将軍より高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁をもらう家茂が客分という逆転した立場で行われました。
嫁姑問題
和宮より11歳年上の姑、天璋院篤姫は和宮に様々な無礼をはたらいたと典侍から孝明天皇への書状に書かれています。
初対面の時、天璋院篤姫は、敷物のある上座にあって会釈も礼もしなかったといわれています。
和宮は下座で敷物のない畳の上に座らされました。
『青天を衝け』での上白石萌音さんが演じる天璋院はずいぶんと優しそうでしたけどね。
嫁入りの際、和宮から天璋院篤姫に届けられた土産の目録、その宛名は「天璋院へ」と呼び捨てで書かれていました。
和宮からすれば、自分より身分の低い天璋院を呼び捨てししたのは当然のことだったのです。
こうした天璋院や大奥との対立は明治維新後は次第に氷解していったようで、晩年は良い関係を築いています。
和宮の強さ
和宮の決意は強かった。
逃げ出す気は全くなかった。
「惜しましな 君(天皇)と民とのためならは 身は武蔵野(関東)の 露と消ゆとも」
自らの命をも天皇と民のためなら惜しくない…という和宮の強さが感じられる歌です。
夫徳川家茂との関係
同じ年齢の家茂との夫婦仲は最初から良好で、家茂は側室をもたず、和宮を生涯の伴侶としました。
家茂をたてるような和宮の行動に、天璋院篤姫との関係も徐々に良くなっていったようです。
家茂が脚気で寝込んだ時は、和宮はお百度参りをして回復を願いました。
1865年、家茂は長州征伐のために江戸から旅立つ時に和宮に京土産は何がいいかと尋ねます。
しかし1866年7月20日、家茂は征長の最中に21歳の若さで亡くなります。
「空蝉の 唐織りころも なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
どんなに美しい織物もあなたがいなければ、何の意味もない。
結婚して4年。夫婦として過ごせたのはわずか2年でした。
朝廷と徳川家の架け橋
慶応3(1867)年、大政奉還。将軍徳川慶喜は朝廷へ政権を返還します。
生まれ育った天皇家。嫁ぎ先の将軍家。
和宮は板挟みになります。
和宮は京へ戻らず、徳川存続に尽力します。
「後世まで清き名を残したい」と考えた和宮は、新政府軍へ謝罪し、徳川家への寛大な処置を願いでます。
慶応4(1868)年、江戸城総攻撃が行われようとする直前に、天璋院篤姫と協力し、新政府軍との和平を成立させるのです。
明治維新後
和宮は東京と名を変えた江戸で、幼い第16代徳川家当主徳川家達と一緒に暮らします。
その後24歳で、8年ぶりに京都に戻ります。
明治7(1874)年、再び東京へ戻り、天璋院や徳川一門と幅広い交流をもちます。
「玉敷の みやこもひなも へたてなき 年を迎うる 御代のゆたけさ」
都も田舎も隔てなく年を迎えられるこの時代の豊かさよ。
明治10(1877)年、32歳で箱根で亡くなります。
短い人生でありながら、波乱万丈な生涯であった和宮。
『青天を衝け』では、それほど長くは出演できないかもしれませんね。
主人公渋沢栄一は昭和まで生きるのですから。