大河ドラマ「どうする家康」、まだまだ松潤は「どうする、どうする」と頼りない若君です。
でも「主君たるもの、家臣と国のためならば、己の妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ。」と言う母於大の方(松嶋菜々子さん演)にビシッと「出て行け」と言った時はちょっとカッコよかった。
結局母の言うとおり今川から離れることになったけどね。
その43年後。
徳川家康が征夷大将軍に就いたことによって、鎌倉幕府や室町幕府のように武家の政権を樹立しました。
目次
徳川家康生存時の徳川秀忠の政治
慶長10(1605)年、家康はたった2年で将軍職を退いた後「大御所」となります。
そして息子である徳川秀忠が征夷大将軍となります。←「もう(豊臣)秀頼に政権は渡さないからね~」って現実。それでもその頃はまだ豊臣家は存続している。
徳川秀忠が将軍であった慶長10年から元和2年の二元政治期、家康は「公方・大御所」と呼ばれました。
将軍職を秀忠に譲った家康は同12年に駿府に退隠しましたが、実際には「大御所」として幕政を裏面から動かし、将軍秀忠も父家康の意志に柔順でした。
将軍と大御所との協力による幕府政治です。
大御所家康は、特に徳川家と対立関係にある天皇や公家さらには大名や寺院に対しても大改革を加えるべく作戦を練りながら、駿府から睨みを利かせどうしたら彼らを懐柔できるかを考えていました。
家康は駿府に有能な人材を集めて大御所政権を樹立します。
外国人の関心事も、江戸の徳川秀忠ではなく駿府の家康に注目します。
スペイン人のアビラ・ヒロンは彼の『日本王国記』に「王子(秀忠)はすでに35歳を超える大人であるが、依然として国王(家康)自ら統治している。」と記しています。創業者のパパに頭があがらない、二代目息子みたいな感じ?
家康は死ぬまで「公方」だったわけです。
家康が亡くなると
元和2(1616)年に家康が亡くなると秀忠親政期になります。
元和2年から9年までは秀忠は公方でした。
秀忠は外交に関して、あまり目立った動きはしていません。
なので、西洋人には「秀忠=将軍」という認識はあったのかどうか。
公方不在
元和9年から寛永9年は秀忠と家光の二元政治期、秀忠が「大御所」で家光は「将軍」です。
三代将軍徳川家光に将軍職をゆずりながら、秀忠はなお「大御所」として幕府政治の実権をにぎっていたのです。
家康と秀忠の「二元政治期」は家康が「公方」でした。しかし、秀忠と家光の「二元政治期」では、なぜか秀忠は「公方」ではなかった。公方不在の時期になります。
公方復活
寛永9(1632)年1月24日に秀忠は亡くなります。391年前の今日です。
なので、寛永9年からは家光親政期で、家光は「公方」です。公方復活です。
つまり、何が言いたいかというと。
江戸時代初期には公方=征夷大将軍ではない時期があったわけです。
家康、秀忠、家光
家康は「キリシタン禁教令」を出し、また貿易を利用した布教を警戒してスペインとの貿易を許しませんでしたが、東南アジアとはそれまでどおり交易をしていました。
しかし、秀忠は家康が死去すると中国船以外は平戸長崎だけに制限する二港制限令を出しました。キリスト教に対する弾圧も強化されました。
家光の時代になると、それらはさらに進みいわゆる「鎖国」体制へと進みます。
家康の禁教令は、カトリック武闘派を排除したいという考えでしたが、秀忠や家光になると合理的な理由というより、徳川幕府の祖法だから…というルール縛りでその後260年江戸幕府はキリスト教禁止を続けたのではないかと思われるのです。
以上、あくまで私個人の考察です。