暮らしと勉強、猫と一緒に~Bettyのブログ

実家の母を介護するために北海道から引っ越してきました。その介護も終わり、片づけと大学通信教育部の勉強と猫と。そんな雑記ブログです。当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

『吾妻鏡』に記載がない上総広常の死

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平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の二男坊に過ぎなかった。

だが流罪人・源頼朝姉の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。

1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。

北条一門はこの無謀な大博打に乗った。

頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。

幕府を開き将軍となった頼朝。

だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。

偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。

”飾り”に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。

将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていく。

義時は、2人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵を取る。

源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。

都は後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。

武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ。

結局鎌倉幕府軍は返り討ちに合わせ圧勝、その後鎌倉幕府が中心となり世の中を動かした。

その後それを受け継いで室町幕府になるわけだが。

 

目次

 

吾妻鏡

吾妻鏡鎌倉時代後期に成立した、武家がまとめた最初の歴史書です。

鎌倉時代の初代将軍となった源頼朝の挙兵(1180年)から、宗尊親王の京都送還(1266年)までの80数年間の鎌倉幕府の歴史が、6代将軍の治世ごとに日記風に記されています。

 

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徳川家康の愛読書

「鎌倉殿の13人」最終回冒頭。

まさか松潤の出演とは。

吾妻鏡』は徳川家康の愛読書だったとのナレ説明がありました。

偶然なのか、「鎌倉殿の13人」最終回の12月18日の朝に放送した「おんな太閤記」第38回で、関東を治めるように秀吉から命を受けた徳川家康フランキー堺氏演)の「関東は、源頼朝開幕の地。我らにとっても縁起がええ。」という台詞がありました。

1981年放送の大河ドラマの台詞がオマージュとなって、その再放送の夜に松潤源頼朝挙兵からを描いた吾妻鏡を読んでいるとは。

おもしろい演出でした。

 

吾妻鏡』に書かれていなかった部分

北条目線の『吾妻鏡』、『吾妻鏡』には書かれていなかった部分があります。

たとえば建久7(1196)年正月から建久10(1199)年正月の3年1か月については一切記述がありません。

この間、建久10年正月13日には源頼朝が死去していますが、それには一切触れず、建久10年2月6日の条として、「(朝廷から)羽林殿下(源頼家)に『前征夷将軍朝臣(頼朝)の跡を継ぎ、家人・郎従に従来通り諸国の守護を行わせるように』との宣旨が着いたので、吉書始めの儀式を行った」とだけ書かれている。

そして源頼朝の死と同様、有力な武士だった上総広常かずさひろつねの死にも触れていません。

あえて吾妻鏡に記さなかったのは「何か意味があったのかも」と仰るのは東京大学史料編纂所本郷和人氏。12月1日付けの朝日新聞より

 

上総広常

1979年大河ドラマ草燃える』で上総広常かずさひろつねを演じたのは小松方正さん。

今年『鎌倉殿の13人』で上総広常を演じられたのは佐藤浩市さん。

なんと魅力的に演じてくれたことか。

佐藤浩市さんは武骨者ながらもチャーミングでどこか可愛くて、字を一生懸命練習する姿が微笑ましく、視聴者の心を鷲掴みにしました。

 

第15回「足固めの儀式」での最期の場面では号泣した私でございます。

 

頼朝挙兵の最大の功労者

2万騎の軍勢を擁したという上総広常が頼朝に味方していなければ、頼朝挙兵は失敗していたかもしれない。

その意味で、広常は最大の功労者であり恩人と言っても良いのです。

そんな広常が寿永2(1183)年12月20日、頼朝の命令を受けた梶原景時によって、双六の最中に首を掻き切られ、殺害されてしまうのです。

839年前の今日です。

 

上総広常暗殺の謎

なぜ源頼朝は、広常を殺さなくてはならなかったのか。

 

権力確立の妨害者だった

『鎌倉殿の13人』では、広常が大豪族であるがゆえに、頼朝の政権の脅威となっていることが殺害の要因として描かれていました。野口実氏(京都女子大名誉教授)の考察?

 

 

路線対立

天台宗の僧侶慈円の史論書『愚管抄』によると、源頼朝は「広常は、なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして関東で活動しているのを、一体誰が止めることができるでしょうかと言うような謀反心のある者でしたので、そのような者を家臣にしていては、自分まで好運を失うと考えて、殺害したのです。」と後白河法皇に語ったとされています。

京都・朝廷重視の頼朝、東国重視の広常との間に路線対立があったと考えることができます。

 

軍勢派遣に反対

京都にいる木曽義仲討伐のために、頼朝は源範頼(頼朝の異母弟)を派遣するのですが、その軍勢派遣に広常が反対したことが粛清の要因という説もあります。

 

広常の手紙

ドラマで号泣したのは、上総広常の手紙が見つかり、それを読み上げる場面でした。

この手紙はドラマの脚色ではありません。

寿永3(1184)年正月、広常の鎧から願文が見つかり、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文章でした。

頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常のまた従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を放免したとされます。吾妻鏡』により信憑性は不明

 

上総介塔

上総介広常は、坂東随一の大豪族領主で2万の兵を率いて頼朝の軍営に参集し鎌倉幕府の樹立に貢献した武将です。

横浜市金沢区の道脇に「上総介塔」があります。

この塔の主がどの上総介であるかには諸説あるようですが、地元では、上総介広常として伝わっています。

道の傍らにある石塔は、昭和59(1984)年に地元の有志により復元されました。

 

 

「鎌倉殿の13人」最後まで楽しませていただきました。

面白かったです。

義時の死の場面も三谷脚本ならではの解釈で、「これ以上手を汚さないために、姉(政子)の弟(義時)への思いやり」という政子の印籠でしたね。

 

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